六本木詩人会 六本木詩人会 ホテルアイビス六本木

耳を切る黄色い人の、森に祈りが降る星のことばになる。(ポスト印象派展のための四つの印象詩(Chance Operation/Improvisation
(AM9:03,Jul.13,2010/
AM7:08,Jul.12,2010/
AM5:15,Jul.13,2010/
AM8:11,Jul.14,2010
六本木アートポエトリーシリーズNo.707
カニエ・ナハ



※本作品は六本木・国立新美術館にて開催中の「オルセー美術館展2010「ポスト印象派」」(開催中~8/16[月]迄)を訪問して、そこで得られたインスピレーションやイマジネーションによって制作されました。



AM9:03,Jul.13,2010
ある画家の色彩をおもうとき、まっさきに思い浮かぶ色がありますよね、それはひとそれぞれちがうだろうけども、わたしにとってルノワールは黒(ノワール)の画家であり、おそらく多くのひとにとってそうであるように、わたしにとってもフィンセント・ファン・ゴッホのそれは黄色であって、例のひまわりにしろアルルの寝室にしろ自画像というよりも自我像というような自画像にしろ今回のオルセー美術館展の目玉のひとつになっている星降る夜にしろ、黄色、目に指でふれられるような、やさしく口づけをされるような、それはどんなにやさしくても痛くって、ふれられたくないやわらかいところにふれてくる、たとえばそれは教室の、黒板やガラスにつめを立ててひっかくいたずら好きの子どものような、そのくせ誰よりも繊細な、きっと家庭になにか問題があるんだ、あるいは前世に、そんなところがあって、ナチス・ドイツだかの拷問のひとつに、せまい部屋の壁も床も天井もすべてまっ赤だったりまっ青だったりする色彩の部屋に閉じ込める、という拷問があったという話を聞いたことがあるのだけど、ね、人間はじつにいろいろな拷問をおもいつくよね、あなたが想像する、あなたにとってもっとも残酷な拷問はなんですか? その拷問をしたい、とおもう相手はいますか、それはあなた自身の手で? それとも、ほかの誰かの手で? あなたの考えだしたあなたの考えうるもっともおそろしい拷問で、苛んでやりたいとおもうそのひとが拷問されるところをあなたはかたときも目をそらさずに見ていたいとおもいますか、わたしはまっ赤な部屋、まっ青な部屋、まっ黄色な部屋に閉じ込めてみたいひとがいます、ナチの拷問のように、いわせたいことがあるんです、吐かせたいことが、ここだけの話、わたしは諜報部員です、スパイね、いま六本木からほど遠くない、外苑前にあるワタリウム美術館で、落合多武さんというアーティストの展覧会をやっているのですが、その展覧会名が秀逸で、「スパイの失敗とその登場について」、スパイは失敗して、登場してしまって、囚われの身となって、色彩の部屋に閉じ込められています、わたしたちは神さまのスパイで、失敗して、誕生してしまって、色彩の部屋に閉じ込められています、ナチ的な残酷なせかいに、色彩の部屋に閉じ込められていると、何日かするうちに発狂してしまうらしいんですが、とりわけ、まっ黄色の部屋はそうとう厳しいかもしれませんね、たとえばゴッホの「アルルの寝室」の色彩からなにまですべてをじっさいに再現した部屋があったとして、そこにいて、あなたは何日間、あるいは何時間、わたしたちは正気をたもっていられるでしょうか、はたしてぼくは耳を切らないでいられるだろうか、耳を切るといたいだろうか、わたしはよく耳を切ります、食パンの耳、あれはどうして耳っていうの? パンは耳を切られたら痛いのかな、けさ冷蔵庫のありあわせのもの、チーズと生ハムとトマトをうすくスライスしたのを、バターとすこしだけからしをぬってはさんだ、サンドウィッチをつくりながら、あたしはそんなことをかんがえていたのだった、パンはその耳でなにを聞いているのだろうか、たとえばベーカリーのかたすみで、たとえばあたしんちの電子レンジのうえで、あなたは覚えているだろうか、焼きたてのパンのかおり、今日は7月13日です、迎え火でパンを焼こうとおもいます、あなたはパンが好きでしたから、ね、死んでもにおいはかげますか、死んだらみえないのかな、きこえないの? だったらやっぱりにおいもかげないのかな、死んでしまったらあなたのにおいも死んでしまったのかな、においの記憶はうすれていきます、あなたの声もだんだんとかき消されていくようです、あなたのにおいが鼻のおくにとけて消えてしまいます、においの記憶はにおいではありません、声のきおくが声ではないように、ゴッホさんの自画像を眺めていると、その顔の異様な黄色さにみせられて、(とても安易ではあるのですけど、)「黄色い人」という言葉がおもい浮かんで、それは遠藤周作さんの最初期の小説のタイトルであることにすぐにおもいあたった。そこでいう黄色い人とはわたしたち日本人のことで、西洋人=白い人との対比として描かれているのですが、どんな話だったかなとおもって、本棚から新潮文庫版『白い人・黄色い人』を取り出してみる、「『白い人』は、醜悪な主人公とパリサイ的な神学生との対立を、第二次大戦中のドイツ占領下リヨンでのナチ拷問の場に追いつめ、人間実存の根源に神を求める意志の必然性を見いだそうとした芥川賞受賞作。『黄色い人』は、友人の許婚者をなんら良心の呵責も感じずに犯す日本青年と、神父を官憲に売った破戒の白人僧を描いて、汎神論的風土における神の意味を追求する初期作品。」(新潮文庫版『白い人・黄色い人』表紙裏の解説より引用)ところで、私がこの文庫本を買ったのはもう十三、四年前のことだ、遠藤周作さんが亡くなって(ご冥福をお祈りいたします)、そのとき読みはじめたのだった、死んでしまったひとの本をよむのと生きているひとの本をよむのはまるでべつものの行為だという気がいたします、すこしだけ古本のにおいがするけど、かといって、いかにも古本のにおいがするわけではない、本は、いつから古本になるのだろう、「古本」を思い浮かべるとき、まっさきに嗅覚が刺激されます、本のにおいの記憶、また古本の色彩、紙の外側のほうから、濃い茶色に変色していって、内側へと向かって、茶色がだんだん薄くなっていく、そして頁をぱらぱらとめくると、たちのぼる、におい、饐えた、わたしの知らない誰かのゆびさきがたしかにふれていた、そのゆびがすこし汗ばんでいたなら、その汗がしみついているかもしれない、本はあなたの手を覚えていて、あなたはもう死んでしまったかもしれないけれど、未だ生きている本が、わたしの手とあなたの手をつないで、たとえばあなたが死んでしまっていて私が生きていてもあなたと私はつながっていて、たとえばわたしが死んでしまってあなたが生きていても、わたしとあなたはつながっていて、本っていうのは鎖みたいなもの、あるいは川のような、ものなんだなぁ…っておもって「本」っていう字をあらためてしげしげと、いま、眺めてみたら、なにかのまじないか、お祭りにつかう、神さまの、道具みたいでしょう、だからね、本をたいせつにしないといけません、本棚は神棚だから、神田神保町にはそれはそれは神さまがいっぱいいらっしゃって、そういえば、前田塁さんの『紙の本が滅びるとき』という本を、わたしはまだ読んでいないのだけれど、その本のタイトルから私が連想するのは、もうこれは約束されていることなのだけど、いつか人類が滅亡して、人間の骨という骨はあっというまに風になり雨になってしまう、そうして荒野に、ただ本ばかりがのこって、沙漠の骨のように、遺跡のように、だけどもそれも長い年月、長い年月なんてわたしたちがおもっているだけの、瞬きするほどの刹那でしかなくて、そんな宇宙をただよう木々があくびをするほどのあっというまのときのなかではや送りのように腐敗していき、(文字どおり)風化していって、本は土になって、本は風になって、本は雨になって、遺跡の最後の欠片の本の残りの最後のページが、人類の最後の言葉が、ある日風に浚われて、大気のなかに、人類の存在の記憶とともに、消えていく、光のなかに、まずはじめに言葉があって、そしてさいごにも言葉があった、そして言葉はなくなった、あとにはただ、光だけがあった、光だけが、あった、それが、私にとっての、紙の本が滅びるときで、紙には神さまが宿っているのだから、紙の本が滅びるとき、神さまは滅びるのですね、私は、紙に神さまが宿ると信じているから、紙の本とインターネットを比べたとき、どうしても紙の本のほうを選んでしまうのだけれど、あのインターネットでなんでも買えちゃう古本屋さんだって、名前ばっかりでどんな木や水のにおいもしないし、鳥の声も虫の声も、聞こえない、わたしたち自身を流れるそれと見分けのつかない、水音も、あなたにあたまをなでられたときのようにどこまでも静かになってみなもをゆらすこもれびも。でも考えたらインターネットにだって神さまはいらっしゃるにちがいなく、それは文字に神さまが宿っているのだから、モニターにだって、キーボードにだって、神さまはいるに決まっており、いらっしゃるに決まっており、遠藤周作さんの『黄色い人』にもどると、とても長い、エピグラム的な、冒頭部分がとても魅力的なので、引用させてもらうと、

「神さまは宇宙にひとりでいられるのがとても淋しくなられたので人間を創ろうとお考えになりました。そこでパン粉を自分のお姿にかたどってこねられ竃でやかれました。
 あまり待ちどおしいので、五分もたたぬうちに竃をおあけになりました。もちろんできあがったのは、まだ生やけの真白な人間です。「仕方ない。わしはこれを白人とよぶことにしよう」と神さまはつぶやかれました。
 こんどは失敗にこりて、うんと時間をかけることになさいました。すこしウトウトとされているうち、こげくさい臭いがします。あわてて蓋をおあけになると、真黒にやけすぎた人間ができているではありませんか。「しまった。でも、これは黒人とすることにしよう」
 最後に神さまはいい加減なところで竃をひらかれました。黄いろくやけた人間が作られていました。「なにごとも中庸がよろしい」神さまはうなずかれました。「これを黄色人とよぼう」(童話より)」
(遠藤周作『黄色い人』冒頭部分より引用)

にんげんは神さまのおつくりになったパンで、どういうわけか黄色いパンになりたかったフィンセントさんは自分で自分の耳を切ってしまいました。そんなに黄色い人になりたかったの? 牧師さんになりたかったゴッホさん。神さまを求めたゴッホさん。羊の目をしたゴッホさん。あなたはいったいどうしたかったの? いつだって咳こんでいるみたいなかわいそうなゴッホさん。抱きしめてあげたいよゴッホさん。きっとはらいのけるだろうけどゴッホさん。ゴッホさん、あなたの神さまが一人しかいなくたって、わたしたちには神さまがたくさんいたって、おつりがくるくらい神さまがいたって、ぜんぜん変わらないよゴッホさん。前言撤回。やっぱり、インターネットにも神さまはいないよ。神社にもお寺にもお墓にもどこにも水たまりにもホテルにも、どこにも。だって、だって。(たとえば)黄色い人はインターネットの神さまに救いを求めてえんえん罵声のような祈りのようなもんくを毎日毎日えんえんインターネットの神さまのやおよろずの掲示板にたらたらと書き込みましたが無視されたので腹をたてて黄色い人はある日借りもののトラックにのって天国につっこみましたかれの奇声と人びとの悲鳴が渦をまいて天国に響きわたって天国を引き裂いて天国の交差点は血まみれで天国は閉鎖されました神さまのパンの子どもたちが尊い命をおとしましたみんなが怒りにふるえましたあんなやつは拷問にしてしまえナチのようにあの子を返してあのひとを返してやさしいパンのひとたちを返してあのひとたちたぶんわたしとおなじようになんとなくでもたしかに神さまを信じていて信じるともなく信じていてお正月には神社にいったりお墓参りにいったりしてみんなのぶじを祈ったり祈られたりしていてそれなのにあんなふうに死んでしまったパンはやわらかいパンはすぐにつぶれてしまうパンはこわれやすいパンはもろいパンを踏まないで神さまはいませんでしたいっぱいいっぱいいるはずの神さまはやおよろずの神さまはいませんでした神さまはぜろでしたどこにでもあまねくいるはずの全能の神さまはいませんでした神さまはぜろでした、そしてまた遠い国のおはなし、(たとえば)白い人は高校生の白いひとはやはりなにかに腹を立ててある日らいふるをもってじぶんの高校へいって教室でじぶんの神さまのお友だちに向けてらいふるを乱射して銃声と悲鳴銃声と悲鳴と悲鳴と銃声にげて隠れて神さま神さまおーまいごっどわたしの神さま、おお、まい、いままで悪いこともたくさんしてしまいましたけどわたしたったひとりのあなたのこと信じていますあいしていますだから助けてくださいあいしてくださいまだ死にたくありませんまだまだやりたいこといっぱいありますパパとママを悲しませたくありませんあーめんおおまいあなたのこと愛します今よりもっともっとあいしますからあいしてよしんじますからしんじてくださいあーめんおおまいあーめんあーめんだけどもちろん祈りは届かなくて神さまのパンの子どもたちは穴だらけになって白いパンもやわらかいやわらかくて壊れやすい壊れやすいはパン祈りはチーズのように穴だらけになって祈りは穴だらけのチーズのからだから流れていってとろりとながれていってたったひとりのみんなのヒーローだったはずの唯一絶対の神さまはそれでも絶対的に黙っておられましたあーめんおおまい。黄色いパンも白いパンもただのパンだからそれをおつくりになった神さまも神さまたちもごじぶん(たち)がつくったパンのひとつひとつにいちいちかまってはいられないのが現状です毎日つくって毎日とてもいそがしい人気のベーカリーなのですから、だからわたしたちはだれもがある意味捨てられたパンでみなし児のパンで見捨てられてさみしいパンです、こんなにたくさんいるのに宇宙にひとりぽっちでさみしいパンです、さみしいからパンのにおいをかぎます、かぎたいです、かがせてよ、それでわたしは、あなたのふくらんだパンに鼻をおしつけてやさしいパンのにおいをかいでいました、午後、神さまのせなかで、やわらかいひかりとなって時間は残酷に流れていった、耳は鼓動に裂かれていった、そしてあなたは焼きたてのパンみたいにあたたかくてやわらかくて、神さまに見すてられたことも、わたしたちが神さまに見捨てられたパンであることも、わたしのパンが渇いて黴が生えてしまったことも、ひび割れて二度ともとにはもどれないことも、ちっともおいしくなんかないことも、わたしはちょっと忘れて、黄色いひと、黄色いパン、それからわたしはあなたのパンのかおりのなかで、つつまれて、すこしだけ夢をみました、雨の古本街のゆめです、神さまがむせかえるような名前をおもちのまちの、古本屋さんのたくさんある通りで、神さまはなにせ本がおすきですから、神さまたちどなたさまもとっても読書家でいらっしゃって、むかしなつかしい図書館の所蔵本のいちばんうしろのポケットのなかの図書カードの名前は神さまのリストでした、そのゆめのなかの、でも現実にもなじみのふかい、古本街は、いつもはにぎわっているのだけど、夢のなかでは、にんげんはみんな紙の本よりも一足先に滅んでしまったのかなあ、だあれもいなくって、みえない神さまばかりでにぎわっていて、いらっしゃって、雨がいっぱいにひろがって、ふくらんで、古本屋さんのなかは古本のにおいでいっぱいで、どこかの奥のほうで、お店のひとがもしかしたらパンを焼いているのかしら、古本屋さんはパンを焼くのがおじょうずです、むかしは古本屋さんとパン屋さんはひとつでした、本屋さんとパン屋さんはたがいに必要としあい、あいしあっていたの、古い本の、ひとの記憶やぬくもりと滅びの予感のまじりあったあまいにおいと、焼きたてのパンの生きていることそのもののようなたちのぼるにおいとがまじりあって、どこまでも子どものころの、あるいは死ぬ間際の、いまは耳のおくで静かに波打っている、森のようにやさしくて、木漏れ日のもようにまだらになって日焼けした子どもみたい、森で育ったから、とってもいいにおいがするの、おとなりの古本屋さんは、画集の専門店で、ゴッホさん、かわいそうな黄色いパンになりたかった白いパン・ゴッホさん、ばかだよね、どっちだって変わらないのに、かわいそうな、かわいそうな、ゴッホさん、パン・ゴッホさん、そのゴッホさんの画集からも焼きたてのパンのにおいがして、たちのぼって、かなしいパンの人間のにおいがして、みちみちて、もういちど、あなたのパンのやさしいにおいにつつまれて目がさめて、あたりはもう、どちらでもない、なにもみえない、黄昏
AM7:08,Jul.12,2010
今日も雨がふっていて、昨晩のあなたの声が耳のおくに鳥のようにとまっていて、森、口をつぐみ、鳥はただ黙って聞いてくれる、わたしが死ぬ日もきっと雨ふりに決まっていて、わたしが生まれた朝は雨でした、あなたが生まれた日も雨でしたね、だからね、わたしは雨がすきです、こないだ晴れた日にあなたと相合傘しましたね、あめんぼが、雨を呼んだのだよ、それでね、先日詩人のS・Yさんの主催する代々木公園での詩のイベントに、エストニアの詩人の方がおふたり、いらっしゃって、わたしは彼らにエストニア語で、わたしにとって3つの、これだけ覚えていればまあなんとか生きていけるだろう、という言葉をおしえてもらって、いつか、エストニアに亡命することになったときにね、日本にいて亡命なんてないだろうっておもうかもしれないけれど、個人的な、たとえば愛の事情でね、亡命しなくちゃいけなくなるかもしれない、そのときのために、「ごめんなさい」「ありがとう」「あいしてる」ってエストニア語で、エストニアの詩人が、「ごめんなさい」をおしえてくれた、「ありがとう」をおしえてくれた、「あいしてる」をおしえてくれた、だけどわたしは、ごめんなさい、その言葉を忘れてしまった、わたしはとても酔っぱらっていたから、このところのわたしはとてもやわらかくなってしまって、生まれたての雲みたいに、インターネットもあまりできないようになってしまった、インターネットは四角いでしょう、四角いものはかたい、かたいものはこわい、こわいものはこわい、とても四角い、ことばやこころがとびかっていて、四角いはこわい、だれもなにも理解できないのに、誤解しあうことでしか理解できないのに、理解しようとするから傷つけたり傷ついたりしてしまって、やさしいお墓みたいな冷蔵庫にもたれて、そんなだれかとだれかが傷をつけあう音に耳をすませていて、そのことでわたしもすこしは傷ついていたんです、ごめんなさい、それでひねもす、あきもせず、ながれる雲ばかり眺めていたの、雲はやわらかいね、ごめんなさい、ごめなさいということば、エストニア語の、それはとてもうつくしい響きで、ありがとう、わたしは彼らのお名前だけを事前に知っていて、わたしは彼らが女性だか男性だかわからなかった、わたしは、わたしもいつもわたしの作品とかことばだけで知っていてくれていたひとにあうと、おもっていたのと逆の性別だったといわれて、びっくりしたといわれるのですが、あなたの目のまえにいたわたしはほんとうにわたしでしたか? いまあなたにこうして語りかけている、あなたのなかにいるわたしがほんとうのわたしですよ、どうか、みえるものに惑わされないでね、わたしはここにいます、あなたのまえにいたわたし、あれはただの容れ物でしかないよ、だまされちゃあいけない、わたしはあなたの耳のなかの森のなかに裸足でいまふみこんで、はだしはやわらかい、あなたに語りかけていて、きこえますか、木霊、わたしは木霊です、それがわたしです、ほんとうのなまえは、こだまっていうの、わたしはあなたのなかにしかいないよ、こだまってよんでね、わたしはだれのあなたのなかにしかいないよ、こだまだよ、あのときあなたがあったわたしはわたしじゃないよ、影のようなものだよ、木漏れ日は光と影、だけど、ほんとうの森はよるの森、ひるま、森は眠っていて、よる、森は目覚めるのです、それでエストニアの詩人はとてもうつくしい響きのお名前で、お名前が詩みたいでした、ほんとうは誰もがそうなのだけど、誰の名前も詩ですね、エストニアの詩人の、ひとりは海辺にたたずんでしずかに光る石のようなお名前で、もうひとりは雨のようにやさしくかおるお名前、ありがとう、わたしは雨がすきなんです、だから雨のようにやさしいお名前はとてもうらやましくて、わたしは、いつかわたしにもしも子どもができたら、その子には雨のようにやさしい名前をつけてあげたい、あいしてる、きっとその子もまた、雨の日に生まれるに決まっていて、ありがとう、それはわたしが死ぬ雨の日よりもずっとずっとあとの話ですが、生まれてくれて、ありがとう、あなたが生まれた日も雨でした、生まれてくれて、ありがとう、わたしが死ぬ日も雨です、先に死にます、ごめんなさい、エストニアの詩人に聞きたいことがまだまだたくさんあったのだけど、時間がなくて、のこりの時間は減っていく一方だよ、時間は雨のようにこぼれていって、なのに、いえ、だから、わたしはその日も雨どいのように酔っぱらっていて、ごめんなさい、知ってますか、あめんぼは、雨のようにみなもをゆらすから、雨の坊や、あめんぼ、っていうんですよ、うそ、ぼくがかってにかんがえたの、でも、ほんとかも、ほんとは、飴ん坊で、からだから、飴みたいに甘いにおいがするからなんだって、あめんぼのにおい、あめの、あまい、におい、あめんぼあまいなあいうえお、かいだこと、ある? ありがとう、だから、ね、あめんぼをあの日、あなたとずっと眺めていたのでした、その日は晴れていましたね、どっちかっていうとお天気あめだったね、あめんぼあまいなあいうえお、わたしたちはときどき、あなたのさす傘で、相合傘して、生まれてくれて、ありがとう、かさのしたにも雨はふります、あめんぼあまいなあいうえお、わたしたちのかたもほほもいろんなところ、ズブ濡れになって、わたしの、あなたの、生まれた日が雨でよかった、エストニアの雨はどんなふうに降るんですかって、聞きたかったんです、エストニアの詩人さんに、この国だと、いっぱんてきに、しとしと、とか、ざあざあ、とか、いうでしょう、エストニアの、雨はどんな音して、降りますか、雨はどんな顔をして、おちてきますか、生まれてきてしまったかなしみは、それから、英語、わたしは英検5級だから、英語はあまり得意じゃないんですけど、英語のいいまわしで、犬や猫のように雨がふるっていうでしょう、その言葉をいつもおもいだしては、わたしはとてもかなしい、犬や猫はわたしたちよりもずっと、愛を知っているでしょう、目を見ればわかりますね、あなたは猫のような目をしているね、わたしは犬のような手をしているでしょう、だから、もうね、いつか煙になった犬や猫がね、もっと、愛そのものになって、雲のようにたゆたって、雲はやわらかいね、空から降ってきて、みなもで、あめんぼになって、わたしたち、いつまでも眺めていました、晴れの雨の日に、森のなかで、あなたの声が、わたしの耳のなかの森のなかで、木霊して、こだま、して、わたしのなまえはこだまです、友人の詩人のO・Eさんが先日の六本木詩人会1周年記念イベントの告知のためのポストカードのために、絵を描きおろしてくれて、腕、腱鞘炎になるくらいがんばってくれたんですね、腕に炎ですって、わたしは彼女が腱鞘炎になってしまったって聞いた瞬間、彼女の腕が燃えている映像があたまにながれて、それはフランソワ・トリュフォーの映画「突然炎のごとく」のタイトルにもなっているシーンからの連想だとすぐに気づいたのだけれど、ジャンヌ・モローさんのスカートが燃えていましたね、踊っているみたいだった、ジャンヌさんもスカートも炎も、そんなふうに、わたしたちの衣服やからだに、あるとき予期せず突然ぱっと火がついて、わたしたちの森は燃えてしまう、ね、「アバター」って映画あったでしょう、わたしにはちょっと、乱暴すぎて、正直あまりすきじゃなかったんですけど、あのうつくしい異星の映像ね、戦争なんてどうでもいいから、あのうつくしい星をもっとじっくりね、見せてほしかった、ちがう星のものどうしが、どんなふうに、ことばとか、いろいろな、壁をこえて、わかりあっていって、あいをかわすのかということも、そしてそのあとどんなふうに家族をつくっていくのかとか、戦争なんてどうでもいいから、その「アバター」のなかで、森が燃えるシーンがあって、わたしはとても痛くて、かなしくて、ぼろぼろ泣いてしまったのね、どんな森も、燃やしてはいけません、森でたたかってはいけません、森はたいせつなものたちが生まれる場所で死ぬためのたいせつな場所ですから、森でしゃべるときはしずかにしゃべってね、森を歩くときはしずかにあるかなければいけません、息をひそめて、森、そうです森の話がしたかったんです、すこし、森の話をさせてください、そのO・Eさんの腕が燃えて、描かれた、森の、スクリーンのような、矩形が、森のまんなかに浮かんでいて、まだ燃えていない、六本木はむかし、ずっとむかし、森だったのですね、いまは森美術館という施設のお名前と、その地名にだけ、その記憶をわずかにとどめているばかりですが、エストニア語で、森はなんていうんですか、森、わたしたちの記憶のなかの森のまんなかに、青白く発光しているみたいな、矩形の、スクリーンのようなものがうかんでいて、わたしが生まれるずっとまえに死んだ姉のひざのうえにわたしはいつのまにかよこたわっていて、耳元で、風にのせて、あなたのなくした物語をかたる、つよい、風にのせて、それは森の入り口からはいって、森の出口へとさっと吹きすぎていってしまったけれど、うしなわれたあなたの物語は、あまねし物語は、いつだって詩をはらんでいるんです、声が詩そのものであるのとおなじように、それがみえない煙のように、森のすみずみにまで居のこって、心臓の鼓動、わたしの森のまんなかに浮かぶ白いスクリーンに、古い映画のようにいつしか焼つけられて、ああ、そうか、森は映画館なんだ、風がフィルムなんだ、あなたの声は、うしなわれたあなたの声は、わたしの森の木々の葉っぱたちをゆらして、くゆらして、それは、音楽、からすの鳴き声のようにやさしくて、からすの目も、やさしいね、やさしくて、いまにも燃えそうです、腕、いまにも、わたしはそのよるの森のやさしいにおいに、いつまでも包まれていたかったのだけど、虫たちの鳴き声、枝のはぜる音、ふれられる月、虫たちはいつ眠っているのかしら、木々の寝息、星たちのすすり泣き、惑星の調和、森の鼓動、木のうろといううろに隠された、決して明かされることのないひみつ、永遠に、死なない、ひみつ、そしてやがて、それらすべてを抱きしめる痛みをともなって、かなしいくらいに朝が来てしまう、森の映画館の上映時間はよるだけです、虫の音、途切れ、あなたの声はよるそのものみたいにやさしいね、あなたの肌はフィルムのようにやわらかく、わたしの耳たぶをなでていって、火が水のように、溶けだして、聴こえますか、聴こえますか、ふれることだってできるよ、声は、だけどすぐにきっとあなたも腕、燃えるよ、ぼくも、足さえも燃えてしまうよ、つまさきも、くるぶしも、森、森は黙っていなさい、みんなみんな燃えてしまえよ、雨粒が、あめんぼになるよ、わたしたちはだれもがみんな雨んぼ、雨の子どもだよ、あめんぼあまいなあいうえお、あめんぼあまいなあいうえお、ねえ、それで、あさって締め切りの原稿を書くために、いまから美術館にいってこようとおもうの、かつて、森だった六本木のはずれにあって、かつて軍隊の場所だったところにあって、戦争なんてやめちゃいなよ、たくさんのひとがもうじゅうぶん死にました、え、そうなの、もう戦争はしないってほんとう? きっとまたするよ、さいごまで守りとおされたやくそくがいままでにあった? 雨がふるたびに、痛みはやさしくいやされていってしまうから、わたしたちみんな雨になったころは、あめんぼあまいなあいうえお、ああやってあめんぼたちね、おどりをしながら、眠っているんだ、死者をあいするように、だからいまのうちに、となりは大きなお墓の、美術館に、わたしはひまをつぶしに詩を書きに行ってきますね、書かれるべき詩なんてわたしにはないからね、書きたい詩すらない、ただそこに詩があるだけ、いや詩なんてない、わたしには、どんな詩も、生きられるべき生がないのとおなじこと、死ぬべき死がないのとおなじこと、わたしにとってはね、どうせいつかはすべて消えてしまうよ、この星もいっこのちいさな、いっしゅんの、流れ星になって、だから、詩なんてきらい、むいみなものきらい、だいきらい、みんな燃えてしまえよ、ぜんぶ消えてしまえよ、でも、でも、あいしてます、むいみなものは、むいみなものだけがとおとい、うそ、とおといかどうかわかんない、だけど、いとしい、それは、たしか、いとしいはかなしい、かなしいはやわらかい、やわらかいものはこわれる、こわれるものをはなさないでね、まもってね、それでね、とっても混んでるんだって、デパートとか、ひとがいっぱいあつまるところには、いっぱいいるっていうからさ、そうして明日は迎え火、ごめんなさい、わたしはかおを知らないご先祖さまたちばかり、ごめんなさい、だけどあなたたちが流れていて、行間に、雲のように、ありがとう、亡霊たちも、きっといっぱい、きていて、いらっしゃっていて、いっしょに見にいきますか、とても、きれいな、絵みたいですよ、ご先祖さま、ご先祖さまたち、ありがとう、あめんぼあまいなあいうえお、いま、やっと、おもいだしました、たぶん、あっているはず、エストニアの詩人がおしえてくれた、ありがとうは、タナン
AM5:15,Jul.13,2010
ポスト印象派の豊かな色彩のなかで、ヴィルヘルム・ハンマースホイさんのくすんだ色調が逆に輝いてみえて、たった一点だったけれど、その窓から内奥へと無限に広がっていくような深く甘い沈鬱な世界に魅せられて、いつまでも眺めていたのでした。ハンマースホイさんの作品をはじめて、すくなくとも意識的に、見たのは2年前くらいだったかしら、上野にフェルメールが来ていたときに、おとなりの、あれはなんという名前だったかなぁ、ル・コルビュジエの建築の、お庭にロダンの彫刻がある美術館で、フェルメールの観客をいしきしてかしら、同時期に、あたかも関連の企画のようにして、催されていた、わたしはフェルメールよりもむしろ、このそれほど知られていない、デンマークの画家のほうにより魅せられたのだったけれど、デンマークという国をおもいだすとき、ハンマースホイさんの絵画によってその印象はより決定的なものになってしまったのだけど、かならずしもそういうことはないのだろうけども、どこか沈鬱な印象があるのは、印象の話で申し訳ないのだけれど、この文章は印象派にまつわる印象を印象派的に描くこころみであるから、印象派が絵画の歴史上はじめて(ということになっているけれど、ほんとうのところはわからない)キャンバスを戸外にもちだして、外で絵を制作したように、わたしは筆のおもむくままに、たゆたう水の光や、風の色彩を、その一瞬の生命の、そして死の、眩めきを、筆のおもむくままに、キャンバスにたたきつけて、刻みつけるように、あるいは踊るように、印象を描いて、刻んでいこうとおもいます、私にとって詩は絵だから、これは印象派の詩です、それでデンマークの沈鬱な印象について、そのわたし個人にとっての起源をたどると、わたしが高校二年生のときに東京見学に来たのだった、わたしは日本ではじめてシネマ・コンプレックスがつくられたまちで育ったせいかどうかはわからないけれど、映画が大好きな少年であって、当然のごとく初恋のひともレンタルビデオ屋さんのお姉さんで(笑)、だから、彼女にいいところを見せたくて、むずかしそうな映画ばかりをわざと選んでインテリをきどっていたのだった、そんなわけでベルイマンもフェリーニも高校生のときにすでにかなり見ていた、当然のごとくその恋は片想いでおわったのであったが、すくなくとも映画にはくわしくなった、それで高校二年生のときに東京見学に来たときに、せっかくの機会だから渋谷に行って、そのとき公開されていたラース・フォン・トリアー監督の「奇跡の海」を見たのだった、その何年後かにあの悪名高い「ダンサー・イン・ザ・ダーク」が公開されて、どちらも映画館で一度見たきりなのだけど、ビデオ/DVDでは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の冒頭は編集されているのだと聞くが、衝撃的といわれるラストシーンよりも、冒頭のほうがわたしには衝撃的であった、一体何分間だったのだろう、真っ暗闇がうつしだされる、といういいかたはおかしいか、真っ暗闇が、そこに、あった、それは映画館の暗闇とそこにいるわたしたちの暗闇といつしかひとつになって、包まれる、なつかしかったなあ、そのてざわり、くらやみの、その暗闇のことをいまもよく覚えていて、ある意味、いまもその暗闇のなかにぼくはいるといいうるのであればそれは生まれる前の暗闇でした、といってもいいのかもしれない、真っ暗な映像がえんえんとつづく、音はあったのだったか、なかったか、あんなに暗かったのは胎内にいたとき以来であった、映画館は森です、あるいは胎内です、(森は胎内です、)ぼくはとても怖くてやすらかなきもちになったのだった、そうしてまた生まれなくちゃいけないのか、とうんざりとしたきもちに、なるのは、それは映画館をでるときにだれもが意識しているにせよいないにせよ、おもうことなのだろうけれど、ひとは映画館に入って、出るたびに、すこしずつ死んで、また生まれ変わり、たまに余所見をして映写機の光のたばを眺めれば、そこに死んだひとたちのたましいの粒子を見てしまうのだった、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」でおもいだせるのは、その冒頭のえんえんとつづく暗闇だけで、スクリーンの暗闇と、映画館の暗闇と、私たちの暗闇は渾然一体となって、どこまでも純粋な暗闇で、きれいなくらやみだったなぁ、ずっとあとになって、ぼくはあなたのむねにみみをおしあててめをとじてくらやみのなかであなたのしんぞうのこどうをきいていていきていてくれてありがとうむねのまんなかへんにくちをあててしんぞうにちょくせつありがとうといったあなたのしんぞうはどういたしましてといいましたそれからぼくはまたあなたのむねのまんなかへんにみみをおしあててめをとじてくらやみでたゆたってうまれるまえにもどってこのままもうにどとえいえんにうまれたくないなあデンマークの映画の、ラース・フォン・トリアーの「奇跡の海」でおもいだせるのもまた、本編のストーリーやなにかは断片的にしかおもいだせない、いやほとんどなにもおもいだせなくて、おぼえているのは、生まれた日の雨の音、その日坂道の多い渋谷のまちにまた雨がふって傘をもっていなかったぼくは濡れてしまったこと、子どもでもないのだけれど、だけど大人というほど大人でもなくて、背のびをしてみせたけれど夜の渋谷も夜の渋谷の映画館もちょっとこわかったこと、ひとびとがひどくかなしかったこと、坂ばかりがおおかったこと、なにがこわかったの、なにがこわいの、うん、いきてることがこわいの、チャプターごとに挿入されるストップ・モーションの絵画のような画面とそこに流れていた音楽の残像のようなもの、あれはわたしの記憶のなかで印象派の絵画のような印象であるが、わたしたちの人生もまたいくつかの/いくつものチャプターにわかれていて、わたしたちの知らないあいだにあんなふうにストップ・モーションの印象派の絵画のような画面が挿入されていて、いやおうなしにわたしたちの物語は前へ前へと進んでしまい、とけていき、誰かが死に、さいごには私が死ぬ、私が死んだあと、私の部屋はやがてからっぽになる、ヴィルヘルム・ハンマースホイの描くからっぽの部屋はいつも私(たち)自身の死んだあとの部屋を私(たち)におもいださせて、いまいるわたしの部屋はものであふれているけれど、わたしがいなくなればこんなものはなにもかもすぐにかたずけられてしまえばハンマースホイの部屋とおなじになって、そういえばベルイマンはスウェーデンだけれども、ベルイマンの映画にも室内をえんえんと映したショットがあるでしょう、ベルイマンに影響を受けたウディ・アレンの「インテリア」とか「セプテンバー」にもそんなシーンがあって、そんなシーンばかりが印象にのこっていて、わたしの記憶はいくつものからっぽの部屋でいっぱいです、けっきょく部屋はひとそのものだから、ハンマースホイの部屋のあの空虚さは、彼のあるいは妻のイーダさんのあるいは彼らのあるいはわたしたちの部屋のからっぽさにほかならなくて、からっぽっていいなぁ、あの部屋、ときにドアの取っ手さえもない、閉じられた部屋をここちよいとおもう、あれは天国かもしれないね、天国はハンマースホイのからっぽの部屋、あの部屋にははじまりもおわりもなくて、もう生まれなくていいよっていってくれている部屋、天国の、でもいまはハンマースホイの部屋ではなくて、もうひとつハンマースホイにとって重要なモチーフだとわたしにはおもわれる後姿の話です、その例のなにもない部屋に、からっぽの部屋に、妻のイーダさんの後姿が描かれている、そんな絵が何枚もあって、正面を向いた、彼の絵の通奏低音といいうるトーンと同様に沈鬱な面持ちをしたイーダさんの正面から顔をとらえた作品もあるにはあるのだけれど、それは病んだひとにしかみえなくて、わたしたちはみな病んでいるのだからあたりまえですね、だからそんな作品はすくなくともわたしにはそれほど印象にのこらなくて、ハンマースホイの絵をおもいだすとき、まっ先におもいだすのは、からっぽの部屋、あるいはからっぽの部屋にたたずむイーダさんの後姿、これほどまでにひとの後姿を描いた画家がほかにいるだろうか、あるいはからっぽの部屋ばかり描いた画家が、そして先ほどから私はなんども後姿という単語をしるしたのであったが、どうしてたとえば背中や肩甲骨のつきでているほうを「うしろ」というのだろう、そしてたとえば目や胸やおへそのあるほうを「まえ」というのだろう、役者は後姿が大事というのは常套的ないいまわしだけれども、まことにそうであるなぁとおもうことはままあって、それは後姿は正面よりもずっと演技ができないからでおそらくあって、役者は演技していないところでどこまで役者であるかが大事なのかもしれなくて、たとえばふだんどんなふうに眠るかとか、どんなふうにあいしあうかとか、それは詩人でもおなじなのかもしれなくて、演技がいろいろな層の意味においていわゆるプロの役者でなくても誰でもできるしじっさい日々しているのであるのとおなじ意味で誰もが詩人であるといいうるはずだとわたしはおもうけれども、だからこそ後姿からしてすでに詩人であるようなひとはより濃密に詩人であるといいうるのかもしれない、あなたはどんなふうに眠りますか、台湾のエドワード・ヤン監督の、ざんねんながらこれが遺作となってしまったのだけど、「ヤンヤン 夏の思い出」という映画があって、これも渋谷の夜の映画館で見たのだった、わたしはこの邦題があまり気に入っていなくて、原題は「A One and A Two…」とかいうのだったか、昔は意訳したり内容にあわせて独自に考えられたものでも素敵なタイトルの邦題が多かった気がするのだけど、いまは気のきいた邦題がすくないなぁ、あれは誰が考えているのだろうか、たとえば香港の「インファナル・アフェア」って映画ありましたよね、意味がさっぱりわからなくて、おおくのひとがそうなんじゃないかな、原題そのままにカタカナでいいかみたいのってなんとも手抜きとおもう、それで「ヤンヤン 夏の思い出」のなかで、主人公の少年・ヤンヤンが、親のカメラをかってにもちだして、パシャパシャ写真を撮っている、はじめてじぶんで写真を撮るのかなぁ、せかいを切り取っていくことの好奇心とよろこびのようなものの初期衝動にあふれていて、その彼の撮った写真がね、ぜんぶひとの後姿なのね、あなたはあなたの後姿を見たことがありますか、写真で、あるいは鏡でもいいけれど、でもとても不思議なことで、不思議でもなんでもないのかもしれないけれど、わたしたちはわたしたちの後姿を、せいぜい写真や映像もしくは鏡をとおすことでしか見ることができなくて、あと、わたしたちはわたしたちの顔をじかに肉眼でとらえることはできなくて、永遠にできなくて、それがわたしたちのかかえている根本的な不安の根のひとつになっている気がわたしにはするのですが、よるの木のことをおもう、わたしたちはいつでもよるの森をさまよっていて、それから声、じぶんの声を録音したテープを聴くとわかるとおもいますが、わたしたちがふだんわたしたちの声とおもっている声とじっさいのわたしたちの声にはかなり差があってたいていのひとは録音された自分の声を聴いたときに違和感を感じるはずですし恥ずかしいとおもうひとがおおいのじゃないかしら、息をすることは恥ずかしいことだよ、ねぇいつか時間があったら、自分の声をテープに録音して、自分の声で自分の名前を呼んでごらんよ、そんなふうにしてわたしたちはわたしたちの後姿をわたしたちでないもののように見るのかもしれない、だってそれはじっさいわたしたちではないのだもの、そのとき、森にゆっくりとよるが降りてくるなかを、あなたはだんだんとけもののようになりながら、わたしのまえを行って、後姿の、あなたはぐんぐんとすすんでいくのだった、けものにもどりながら、あなたのもりとわたしのもりのまじわるところの、お墓のとなりの美術館の「オルセー美術館展」の会場でハンマースホイのイーダさんの後姿の絵を見ていたら、ひとの後姿をみょうにいとしくおもいはじめて、わたしは、絵なんてどうでもよくなってきて、そもそもあまりにもひとがいっぱいなので絵に集中できなくて、わたしはつぎのようなことをかんがえていたのでしたが、たとえばこのなかのある絵が一枚数千万円とかするらしい、わたしは来月海外へ行くためにせんじつ保険の手続きをしたのであったが、もしも私が死んでもそんな値段はしない、私がとくべつ安いというのはあるにせよ、私の命よりもすくなくともお金の価値でいえば高い絵なのだなあ、マルクス兄弟だったかの冗談にこんなのがあった、美術館だか博物館が火事になって、いま逃げようというところ、目のまえにシェイクスピアの手書きの原稿と、名もない市井の生身の人間がいて、どちらか片方しか救うことができない、どちらを助ける? わたしは、迷わずに生身の人間のいのちをたすけるだろうけれど、偽善とかじゃなくてね、自分の精神衛生のために、それとシェイクスピアをそんなにおもしろいとおもわない、というのもある、これは好みの問題だから、シェイクスピアのファンのかた怒らないでね、でも、ここでシェイクスピアの原稿を選ぶひともなかにはいるわけでしょう、でもわたしはオルセー美術館のどの素敵で高価な絵もいまここに観客としているひとりの命(どのひとりの命でも)にくらべたらなんの価値もないとおもってしまう、そうおもったら、絵なんてもうどうでもよくなってしまって、わたしはにわかにひとの後姿が、いま生きているひとの後姿が、とてもいとしくなって、とてもとてもいとしくなって、みんな、なんて無防備な後姿なのだろう、木のように、かなしいなぁ、それが印象派展の特徴でしょうか、年配の方がおおかった、年配のご夫婦の、あるいはお友達同士の、あるいは一人ぼっちの、ときには車椅子にのった、わたしなどのような若造の倍から三倍近くの時間を生きてきた、背中を、わたしはとてもいとしいとおもい、彼らの背中に耳をすます、その背景に、たとえばモネの描く日本庭園を模した庭だとか、きれいな風景や光や風が輝いていて、それよりももっともっとうつくしい、あなたたちの背中を祝福しているようで、とてもとてもうつくしかったよ、そうしてわたしはまたあの森にもどって、それはいつのことだったのだろう、ついこないだのような気もするけれど、ずっとむかしだった気もする、そのときからずっとずつと見ていた気がする、あなたのせなかを見うしなわないように、もう二度と、見うしなわないように、私たちは裸足になって、二度と帰れない、森をどこまでもわけいっていくけもの
AM8:11,Jul.14,2010
毎晩、眠るまえに、自分はどんなふうに死ぬのだろうとかんがえながら、眠りにつきます。そのことがあまりにも習慣になってしまったために、私にとって死ぬことは、すくなくとも精神の問題においては、肉体の痛苦の問題はさておいて、それほど怖いことではなく、かえって生きていることが、明日も生きなければならないことは怖いことだ、今日眠ってそのままなにもわからずに目覚めなかったら、とても幸せなことだとなかば本気でおもってしまう、だからさいごに発したことばが、たとえばあいするひとへの「おやすみなさい」だったりしたら、そんな遺作をのこせることは、とてもすてきなことだとおもう、だからね、ぼくのいう「おやすみなさい」っていうのは、あいしてる、ってことなんだよ、ティム・バートンの「ビッグ・フィッシュ」という映画があるでしょう、あの映画のなかで、魔女のガラスの目をのぞきこむと、自分の死に様が見えるというでしょう、ところで「生き様」という言葉はもともとはなくて、死に様から派生したものであるから、日本語としておかしいのだ、というようなことをれいによって丸谷才一さんあたりがむかしどこかで書いていたけれど、生き様なんていうのは、結局はどのように死ぬかということなのだから、そんなにおかしくないのかもしれないとわたしはおもう、魔女のガラスの目をのぞきこむようにして、わたしはわたしの死に様をのぞきこむ、あいするひとに、あいしています、のおやすみなさいをいったあとで、これで、もういいのこすことはなにもありません、遺作、私たちは、にんげんは、ほかのどんないきものも、とてもかんたんに死んでしまうから、とても壊れやすくもろいものだから、神さまもなんにもまもってくれていなくて、いつもぎりぎりのところで、奇跡みたいに生きているだけだから、いつも、わたしは生まれないまま死んでしまった、いまも死につづけている、姉たちのことをおもいます、彼女たちがみんな生まれることなく死んでしまったのに、わたしだけが生きていることが、なんだかとってもふしぎで、いつもふしぎで、死んでいることのほうがむしろ自然なのだとかんがえて、いずれにせよ、ぼくもそっちにいくからね、そしたらちゃんとかわいがってね、森、そうわたしは森によこたわっています、わたしはすでに死んでいます、わたしはいま死につつあります、わたしは森になりつつあります、土があたたかいよ、木漏れ日がなつかしいね、森は古本のにおいがするよ、あなたの鼓動の音がするよ、森を歩くことはいつだって死ぬための練習です、上手に死ぬためのね、わたしは病院では死にたくないなあ、おおくのひとは病院で亡くなりますね、おおくのひとがさいごに見つめるのは病院の天井で、病院の天井には亡くなったひとたちの視線の残像がべったりと層をなしてはりついていて、だから病院の天井をわたしはとてもかなしくおもいます、とてもいとしくおもいます、だから病院の天井に、ジェームズ・タレルの作品みたいに正方形の穴をあけて、まっすぐにいつでもその眼窩に還っていってもいいよって、いってあげたらいいとおもう、死ぬさいごのときに、あいするひとの手をにぎっていられたらうれしいですが、ひとはひとりで死んでいかなければならないので、せめてあいするひとの手をにぎった記憶のぬくもりを忘れずにいたいです、自宅で死ぬひともいますね、だけどわたしは森で死ぬ予定なのです、魔女のガラスの目がそういっていたからです、そして森をおうちのように感じています、つまりはお墓のように、いつか、あなたと歩いた森で死にたいとおもいます、あなたとはじめて手をつないだ、森、森は墓場です、森は病院です、森はゆりかごです、森はおうちです、森は愛です、「愛の森のマドレーヌ」という作品がオルセー美術館展に展示されていて、エミール・ベルナールさんの作品ですが、画家の妹である、うつくしい女性が、森によこたわっている、たぶん眠っているのだろうけれど、死んでいるのかもしれない、森の奥に川が流れている、川はいつだってこちらとあちらのあわいをながれて、彼女がよこたわっているのは、つまりわたしたちがいまたっているがわは、あっちなのかなぁ、とにかく川のかたわらで、森で、画家はそれを愛の森と呼んでいます、このとき彼女は生きていたはずなのだけど、このときも、すこしずつ死んでいって、数年後に、24歳で、亡くなったとしるされてあった、ずいぶんと長い月日をかけて、彼女は森へと溶けていったのだった、アンドリュー・ワイエスさんが亡くなったのは昨年のあたまだったでしょうか、ひとには誰でも運命の絵、運命の画家があなたを待っています、どこかの美術館のかたすみで、あるいは図書館の地下室の閉じられた頁のかたすみで、わたしにとってワイエスさんはそのひとりかもしれない、もう十年以上前のことだけれど、わたしはいつでも大判のワイエスさんの画集をもちあるいて、「クリスティーナの世界」や「ヘルガ」の連作の、わたしはひとに与えられた課題にまじめに取り組むことのできない人間だから、授業なんてひとつもでないで、でも友だちがいるし、通訳もしていたから、大学にはちゃんと通って、木の多い構内の、お気に入りのベンチの木漏れ日の下で、頁のうえの絵のうえで光と影がたゆたって、日がくれてやさしい夕暮れがおとずれるまで、飽きずにワイエスさんの絵を眺めては、いろいろな空想にひたったり、そこから紐解かれていくようである自分の出生のひみつや、生きていくことのわけのわからなさのわけ、あるいはそのことの無意味さのよろこびを、わたしにあたまをなぜてくれるまえに死んでしまったやさしい姉たちとのひみつの物語を、ひもといていったのであった、光と影がページのうえで踊っていました、クリスティーナさんはえいえんに丘のうえにたどりつくことはなく、わたしはあいするひとをひそかに「ヘルガ」と呼んだりもして、そんなワイエスさんの絵のなかでもっともすきなもののひとつが、「春」と題された、なにもない丘の雪解けのなかに、よこたわった裸の人、モデルはお父様でしょうか、それともご自身なのかな、雪解けの雪のなかの春の訪れとともに丘に溶けていくひと、わたしもきっとそんなふうにして、春に、溶けて消えていく気がいたします、わたしのばあいは森、森のなかで、森に溶けていく、栗鼠やカラスが死んだわたしの肉をはこびます、蟻んこたちがわたしにむらがります、わたしの肉も血も骨も、無数のほかの生きものになって、森になります、地面に溶けていったわたしのことばは、しみこんで、根にからみとられて、いつしか葉っぱになります、風がそれをよみとっていきます、風のなかにはいつだって、そんなふうにして、むすうの無声の死者の声が飽和していて、ときどきはいたずらのようにしておたまじゃくしをふらせたりもします、あれはまじわることのかなわなかった、恋人たちの亡霊なのかもしれません、いずれにせよ、すべて地面に還ります、お帰りなさい、腹上死というのがありますね、もっとも幸せな死に方のひとつだとおもいます、森で死ぬのもそれとたいして変わらないとおもいます、泉はあふれます、森に火をつけないでください、森を燃やしてしまったら、たくさんの死者が死んでしまいます、生きているひとは死んでも生きられますが、死んだひとが死んでしまったら、もう二度と死ぬことはできません、だから、どうか、森を燃やさないでください、萩原朔太郎さんの詩に地面の顔というのがあるでしょう、地面には無数の顔があって、だから、なるべく裸足で歩いたほうがいい、地面の顔がすこしでも痛くないように、踏み絵みたいですね、だけどわたしたちは地面の顔をふまずにあるくことはできない、だから、せめて裸足になりましょう、私は来月、海外に行くのですが、そこで死ぬかもしれません、だから、いま読んでいただいている、これが遺作になるかもしれない、わたしはあたまの古い人間なので、飛行機は墜ちるものとおもっているのです、人間は飛べないから、人間が飛ぶことは、本当はよくないことだとおもうのです、だから死んでもしかたないかなぁっておもいます、でも飛行機が墜ちて、そこが森だったりしたら、森が燃えてしまったらたいへんだから、やっぱり墜ちないといいな、っておもいます、海に堕ちて、これ以上海をよごすのもよくないから、堕ちないといいな、っておもいます、とにかく、どこにいたって、わたしたちはとても脆い、人間ですから、いつ死ぬかわからない、神さまはいないから、いない神さまの使いのようにして、誰かがナイフをもって突進してくるかもしれないし、銃を乱射してくるかもしれない、それだったら、森で死にたいなぁ、二度と生まれてこなくていいように、みんなのことばが葉っぱになってしまえばいい、木漏れ日よりもやさしいことばをわたしはまだ知らない、そしてあなたは森のようだね、ぼくはなにも生みたくないだけなんだ、なのにとめどなく生まれてしまうよ、むいみなことばたち、川は流れる、愛の森と彼は名づける、ふるえている、やっぱり死ぬのこわい、あなたのあいのもりのなかで ゆっくりとながいじかんをかけて えいえんに  わたしは死につづけたい うそ  いきていたいの   あなたのこえがもりをやさしくふるわせる  こだま  わたしのほんとうのなまえ   あなたのはっぱたちのすきまからじかんそのもののようにこぼれおちる こぼれおちる  いのり  ことば せいざとなり  
あなたのふるさとの 
やまのはから 
こぼれる ひ

       
           か





                  り











                  う


              ま


             れ



                         た




                 ひ





                              の







                                    あ



                        め



























                                      や



                               き

                                  た
                                     て
                                の

                                   パ
                                      ン

                              の

                                に
                                       お



                                    い





























                        つ

                              な


                       い


                   だ



   
                          
                                        て













                                           か


  
                                        な


                                       え

                                        ら



                                           れ


                                             た






                                                  い






                                             の





                                          り














        も


           え


                 

                   る




                                み



 ず





              う






                       み
























                                      あ

                                          な


                                    た

                                 の

                                   な

                                ま
  

                                 え










































































                              か



                               み


                            さ

     
                                   ま



















































 だ




 こ




        え





    に




     な



                      る








                                             ま









                                                 え





                                         の





































































                                      い




                                  き

                                              て

                                              い
                                               る

 
                                              ゆ



                                              め


































































































                    タ




                        ナ

                
                    ン

















      ひ









   


                 り





















































































                                    こ






                              ど




                                               う













































               お

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            す

                   み
                        



 な






               さ





           い


























            あ

              な


              た

                 と

                          ず
                       っ



              と




















































                                        い



                                     き

                                       て




                                   い




                           た



                             い
            





                                  の



カニエ・ナハ

詩人/しかきびと/現代美術家/スイーツを一篇の詩として味わう会・副会長

2010年「ユリイカの新人」(選/伊藤比呂美)※小野絵里華さんと同時選出

現代詩も現代アートも映画もマンガもJ-POPも作者の日常生活もごった煮の雑食系ブログ「カニエ・ナハのよかったさがしノート」随時更新中! URL:http://nekotree.exblog.jp/


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1 コメント “耳を切る黄色い人の、森に祈りが降る星のことばになる。(ポスト印象派展のための四つの印象詩(Chance Operation/Improvisation(AM9:03,Jul.13,2010/AM7:08,Jul.12,2010/AM5:15,Jul.13,2010/AM8:11,Jul.14,2010”

  1. Chiave より:

    なんか絵画的なうつくしさはあったような。
    だけど、字を読むのがもうおっくうでおっくうで。
    つまり、一度絵画的な配列とか配色のうつくしさに頭がチェンジしちゃうと、
    言葉が字になってしまって、それを読めといわれても読めないよな。
    いままで道具として使っていたもの、たとえばパンならパンを消しゴムとして使っていて、とつぜん、それを食べろといわれても、なかなか喉を
    通らない。
    だから冒頭の絵画的な字の配列のあとに長々と字がつづくのには
    閉口した。

    詩を書くのなら文字や絵画に頼るなよ。
    ことばだけで勝負してもらわないと。

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