吉本隆明の『戦後詩史論』における吉岡実に対する評価を検討してみたい。吉本は『戦後詩史論』で、吉岡実に高い評価を与えている。該当箇所はいくつかあるが、そのひとつを引用してみる。
「ここには表現されないで消えてゆくべき思想が、戦後的な情況のなかで詩として表現されている。一見するとただの身辺雑記的な私小説のようにみえるこれらの世界は、じつはちみつな想像力によって構成されているのである。これが身辺雑記的に見える理由はただ、そのモチーフそのものが生活の中で瞬間的にうまれ、生活のなかへ行動の原動力としてきえてゆくべき思想を、想像力によって詩にしようとしているところからきている。いわば『見えない思想』を、定着しようとする詩人たちの意志から、こういう詩の世界はうまれている。(中略)これらの詩はなぜ、かかれたのであろうか。わたしは、これらの戦後詩人たちが、敗戦のあとには破壊が残り、社会的混乱と生活的飢餓がのこる……何もかも、原因があって結果があるというようにみえる戦後現実の思想状況にたいしてアンチ・テーゼをだしたい欲求をかんじたとき、日常世界で表現にもならずに消えてしまう思想に、無意識にしろ意識的にしろ依存した結果であるとおもう。なによりも因果の鎖につながれたような思考から脱出し、偶然であるようにみえながら永続的である自己の瞬間的に消えてゆく生活思想を掘りおこそうとしたものにほかならないとおもう。(中略)これらの詩人たちが指向したところをさらに意識的につきつめることによって、それに倫理的な意志をかけているのが、野田理一、衣更着信、吉岡実などの系列にぞくする詩人たちである。(中略 「僧侶」を引用して)この詩がなぜ面白いのか。それは詩というものは、人間の表現され再構成できる思想を、想像力によって定着するものであると考えている人々の常識の盲目に、つぎつぎにくさびをうちこむようなイメージが展開されているからである。わたしは、この手法を超現実的であるとも思わないし、オートマチックなものともかんがえない。むしろこれは、前現実的でありまた、この詩人が表現とならないで生活に解体してゆく思想を大切にしながら生活してきたことを暗黙のうちにかたっているとおもう。いわば現実からうまれて現実をはなれる思想を、まったく無視して、現実から喚起されてすぐに現実にかえっていく思想を拡大しえているのだ。だから衣更着や野田理一とおなじように、戦前の生活派の詩人よりもむしろ真の生活派にぞくする詩人であるということができる。これらの詩人たちは、詩を芸術文化現象のひとつとかんがえるかぎり、おそらく何もそれに寄与することはあるまい。しかし、詩をただ暗黙の生活思想を定着するためのものだとかんがえるかぎり、あたらしい戦後的な詩の領土を拡大したのである。戦争と敗戦は、野田や衣更着や吉岡などの詩人たちにおおよそ政治や文化や社会の総体的な現象が解体してゆく宿命をまざまざとみせつけたにちがいない。そのときこれらの詩人たちは、政治や文化や社会現象とならないところに、まだまだ人間の生活思想の未開拓の領域が広大にひろがってゆくことを見出したのである。だからこれらの詩人たちは、鮎川、田村、北村、黒田などの荒地の主要な詩人たちと対照的な詩的世界をつくりあげ、関根弘などの列島の詩人たちの裏がわの世界をさぐり、中島や滝口や安東次男の世界を、さらに意識的に追及しているということができる。また、戦後詩の特徴的な領土は、これらの詩人たちが戦争と敗戦の体験を極度にひっぱってみせたとき、その境界をあきらかにしたといっていい。」(「戦後詩史論」より)
ここで吉本は何を言おうとしているのか。吉岡実らの詩は「生活のなかへ行動の原動力としてきえてゆくべき思想を、想像力によって詩にしようとしている」し、「見えない思想」を定着しようとしているし、「偶然であるようにみえながら永続的である自己の瞬間的に消えてゆく生活思想」を掘り起こそうとしている、と吉本は述べている。吉岡らの詩は「暗黙の生活思想を定着するためのもの」だとも。
このままではなかなか吉本の主張は理解しにくい。対置されている比較物の方を見てみよう。吉本は、吉岡らが抵抗しているのは「何もかも、原因があって結果があるというようにみえる戦後現実の思想状況」や「因果の鎖につながれたような思考」だという。つまり、「社会的な思想」に対して「生活思想」を対置させ、吉岡実らの詩人の詩はこの「生活思想」を表現しようとしているものだと言っていることになる。
おそらくいま吉岡実の詩を「生活思想」を書いた詩だといっても、あまり一般的に通じるとは思われない。翻訳的にここでの吉本隆明の言いたいことを補足してみるならば、ここでの「生活思想」の意味は、イヴァン・イリイチのいう「ヴァナキュラー」の概念に近いものだと言えるだろう。
イリイチの思想を簡略に紹介している松岡正剛の文章を引用しよう。
「ヴァナキュラーとはもともとはラテン語の用語で、かつて英語で使われていたときは、有給の教師から教わることなしに習得した言語に対しての呼称のことをいった。古代ローマでは家庭で育てられるもの、家庭で作られるもの、共有地に由来するものをさした。これをイリイチは『一般の市場で売買されないもの』というふうに拡張する。ということは、すぐに貨幣価値に換算できないもの、すぐには交換できないものということで、だからといって換算価値をもたないわけではない。
これは少し考えてみれば見当がつくように、家庭でつくる料理の価値は貨幣価格をもっていないようでいて、これを出前のデリバリー・サービスで届けてもらえば、そこに価格が発生するわけなのである。こういうことはクリーニング代から子供の弁当づくりまで、ベビーシッティングから老人介護まであてはまる。
しかし、これらの本来はヴァナキュラーであったはずの活動は、いまではしだいに外の社会が用意したサービスと交換できるようになってしまいつつあって、そのうちこれらの本来の意味すら失われそうなのだ。
なぜ、こんなふうになってしまうのか。ヴァナキュラーな経済文化はすべて市場価値に簒奪されてしまうのか。
そこでイリイチは、このヴァナキュラーな活動の中に家庭の主婦活動(あるいは主婦の活動にあたる活動)の多くが分かちがたく入りこんでいることに注目をして、これはこれでシャドウ・ワークと呼ぶことにした。
そもそも主婦の活動がなければ、勤労者は社会に出て収入を得てくることは不可能だった。だからシャドウ・ワークは主婦の労働価値を中心に形成されている。家庭の外に出て賃労働をして稼いでくる価値は、主婦が支払いなく支えている価値の補完物なのである。けれどもいまや、シャドウ・ワークは主婦の労働のことだけをさすのではなくなった。家人や子供の近所づきあいから学生の受験勉強まで、ストレスを受けた『ひきこもり』の負荷から子供たちのファミコン狂いまでをも含んでいる。
シャドウ・ワークは、名前もなく検証もされないままになっている多数者を差別する領域(domain)なのである。」(松岡正剛「千夜千冊」「第四百三十六夜イヴァン・イリイチ『シャドウ・ワーク』」http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0436.htmlより。)
つまり、この松岡の説明を参考にしながら考えると、吉本は吉岡実らの詩を、市場価値に簒奪されることに抵抗しながら、市場価値を脱出することを常に志向する詩である、ヴァナキュラーな価値を追究しようとする詩であると言っていることになる。
このように言い換えられると、ようやく吉本隆明の主張が、吉岡詩への読後の感想と近いものになってくる。
たしかに、吉岡実の詩は、市場価値的なわかりやすい詩表現をとらない。また、逆に「荒地派」の詩のように社会思想的な資本主義への抵抗思想をも積極的には盛り込まない。これはおそらく当時の文学環境の中では、目立つ特徴だったにちがいない。だが、そのことが、かえって吉岡実の作品を息の長いものにしたといえる。
主婦のシャドウ・ワークが社会経済労働に対して補完的な位置にあるとすれば、吉岡実の詩が書かれている場所も、市場価値的な因果関係の鎖を脱する「補集合」(注2)の位置にあると言える。「集合」が拡大して行くにつれ「補集合」の要素が減少していくのと同じように、資本が拡大し社会が成長していくのにつれて、「補集合」である「生活」の領域も減少していく。ほんらい労働の営為は「生活」の領域の維持を目的としているはずなのに。(注3)目的と手段が顛倒し、社会経済労働が超過剰化して自律化し、「生活」の領域を圧迫し始めたとき、「生活思想の未開拓の領域」を求めて吉岡実の詩もまた脱出速度を速めたのだと言える。
われわれもまた、そのような脱出を詩において求めているから、吉岡実の詩に共感するのだろう。その意味では夢を記述する「超現実的」手法や無意識を招来しようとする「オートマチック」な手法は、市場価値的な因果関係の鎖の内部に留まって、それらと拮抗しようとするという意味では市場価値的なものとの共犯関係を結んでいると言える(いま、夢をそのまま記述した詩を書いても、現代詩としての充足がないのは、その共犯関係が見え透いているからかもしれない。あるいはコンピューターグラフィックスなどの表現の発展によって、夢を言葉で描く表現が古くさいものになってしまったからだろうか。ここでも科学技術による侵襲がある)。吉本隆明が「前現実的」と表現したのも、吉岡実の詩が社会経済的な現実に対して補完的な位置に立っていると考えたからだろう。
市場価値的な因果関係の鎖の外部に立つ表現は、必然的に不合理性・非倫理性を帯びることになる。市場価値的社会経済労働による価値の創出には合理化が不可欠だし、契約の履行のためには倫理性が不可欠である。吉岡実はそこから脱出を計ろうとするからだ。そのため、吉岡の詩には性的な表現や暴力的な表現や死んだはずのものが生き返るなどの不合理な表現があらわれる。
特に変質的性表現が顕著に見られるが、これも「脱出」の意図として読める。なぜなら、「変質的で無い性」と「変質的な性」とをわけるのは、性が社会的なものとして――より詳しく言えば次世代維持の生殖行為として――行われているかどうかだからである。なおくだくだしくなるが最近の「非実在青少年条例問題」に絡めて付言しておけば、「犯罪的与件を形成するような実際の変質的性行為」と、「変質的な性の表現」とは、全く別物である。したがって、「変質的は性の表現」を禁止することは、それがイコール「犯罪的変質的性行為者」を禁圧することにはならない。取り締まり当局は実際は「変質的な性の表現」が社会体制への根本的な批判や不満の表現であることを熟知している。だから禁圧したいのだ。ほんとうは生殖の活動が社会から疎外されることがなくならなければ(諸々の意味での不快感が無くならなければ)、「変質的な性の表現」が無くなることはない(そんなことはありえないと思う人間の量と感情の質とに応じて、今の日本の社会での「性」にまつわる歪みが推し量られる)。これも、イリイチが『シャドウ・ワーク』において提起する問題の範疇である。
吉岡実の詩について話を戻そう。「僧侶」第九連がこれまでの分析を裏付けてくれる。
四人の僧侶
固い胸当のとりでを出る
生涯収穫がないので
世界より一段高い所で
首をつり共に嗤う
されば
四人の骨は冬の木の太さのまま
縄のきれる時代まで死んでいる
(「僧侶」より)
僧侶たちの行為はヴァナキュラーなものだから、すぐには価値化されない。したがって僧侶たちは「生涯収穫がない」ことになる。しかしヴァナキュラーな行為は市場経済的労働を裏で支えて補完するものであった。この意味では市場経済的な、一般に人々が通常の社会生活だと思いこんでいるものは、ヴァナキュラーな行為なしには成り立つことができない。その観点からいうと、僧侶たちは「世界より一段高い所」に立っていることになる。市場経済の領域はしだいにヴァナキュラーな領域を浸食し、侵襲し、壊滅させようとしている。しかし、ヴァナキュラーな領域がすべてなくなってしまったとき、市場経済自体も裏支えをうしない、壊滅する。その意味では僧侶たちは自らを自殺に追い込む市場経済と現代社会をあざわらい、現代社会が壊滅する日まで死者となりながら樹木のように立ち続けるだろう。
こうしてみると、「僧侶」という詩は、徹頭徹尾吉岡実という詩人による「ヴァナキュラーな領域を擁護する」という宣言であったことがわかる。吉本が吉岡らの詩作態度に「倫理的な意志」を見たのもうべなえる。
吉岡実が詩のかたちで守っていてくれたおかげで、われわれは詩を読んでヴァナキュラーな領域の中に自らを解放することができる。
われわれが継承すべきなのは、このような吉岡実の「倫理的な意志」である。詩を書くということは、市場経済がすべてを交換価値化し金銭に換算していくような状況に対して「否」を言い、ヴァナキュラーな領域を防衛することである。もっと言えば「贈与」の領域を守ることだ。バタイユがいうように交換価値的経済領域に対して対立的あるいは補完的な位置にある領域が「贈与」の領域である。思えば詩の発生は神に対する言葉の供犠にあった。その本義に立ち返ろうと思えば、無償の贈与の領域を志向するのは当然のことだ。詩は生活にささげられた秘密の儀式なのだ。それがいま見えなくなっている。それほど現代詩の置かれた混迷は深いということだ(ささげるべき相手を持たない芸術作品ほど興ざめなものはないだろう。詩人はいま誰のために詩を書いているのか)。わたしは吉岡の次のような詩に聖画を鑑賞するときのような静寂を感じる。やはりここには深い祈りに似たものがある。
神も不在の時
いきているものの影もなく
死の臭いものぼらぬ
深い虚脱の夏の正午
密集した圏内から
雲のごときものを引き裂き
粘質のものを氾濫させ
森閑とした場所に
うまれたものがある
ひとつの生を暗示したものがある
塵と光にみがかれた
一個の卵が大地を占めている
(「卵」より)
生活の密儀としての詩を取り戻さなければならない。ヴァナキュラーなものたちの領土を守護しなければならない。われわれがこのことに気がつくのは遅かったのかもしれない。しかし、まだ遅すぎはしないはずだ。
(注1)『現代詩文庫14 吉岡実詩集』所収の高橋睦郎のインタビューに吉岡実が次のように答えている箇所がある。
「問=戦争、戦後体験がその後の作品にどう反映しているとお考えですか?
答=詩は感覚だけではできない、いい意味で生活の翳が出ていないといけないのではないかと思います。『静物』の作品は二九才から三六才までのあいだに書かれていますが、『液体』との違いはいい意味での生活が出てきたのではないでしょうか。」
(注2)数学の集合論では、全体の要素のうち、「集合」の要素を取り払った残りのものが「補集合」になる。或る「集合」に含まれていない要素の「集合」が「補集合」である。
(注3)たとえば、村上龍は『最後の家族』において登場人物に単身赴任のような制度を日本の社会が許容しているのはなぜか?という疑問を抱かせている。家族を別居させた状態で就労させることが家庭環境にどのような影響を及ぼすのか、また、社会全体として考えたとき、生産性は実際に向上しているか、などといった検討を経ぬままに、日本の社会は単身赴任のような就労体制を疑わずに受け入れている。生活が市場経済によって圧力を受けている例としてあげる。
[参考文献]
『戦後詩史論』吉本隆明 一九七八年 大和書房
『現代詩文庫14 吉岡実詩集』一九六八年 思潮社
『松岡正剛「千夜千冊」「第四百三十六夜イヴァン・イリイチ『シャドウ・ワーク』」http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0436.html』
この文章は詩の同人誌「ウルトラ」14号「吉岡実特集」に掲載予定のものです。「ウルトラ」14号は吉岡実没後20年にちなんで2010年夏頃発行予定です。予約購入希望の方は、及川宛メールアド レスm31oikawa@goo.ne.jpまでお問い合わせ下さい。
生活の密儀 ~吉本隆明『戦後詩史論』における吉岡実評から~
及川俊哉
及川 俊哉(おいかわ しゅんや)
1975年岩手県生まれ。現在は福島県在住。
2005年、12月23日、は東京駅「銀の鈴」前で突如として「ウルトラ」2代目編集長に任命され、現在に至る。
2009年 詩集『ハワイアン弁財天』(思潮社)発表。
















[...] This post was mentioned on Twitter by 高塚から謙太郎まで and ルーコ, M31. M31 said: 六本木詩人会のHPに吉岡実に関する文章を載せてもらいました。どぞどぞ(^^)http://www.roppongi-shijinkai.net/20100 [...]