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ささやかに、目を置く場所

落合多武展 「スパイと失敗とその登場について」 於:ワタリウム美術館

一方井 亜稀




 目を置く場所。普段、何気なく暮らす空間の中で、呼吸を繰り返すように置かれるその場所は、いつのまにか感覚を麻痺させ、身体までをも拘束する。その拘束が暴かれる瞬間。
落合多武の作品に立ち会うとは、つまりはそういうことだろう。
拘束されていたことを露わにされる瞬間。すべての結び目がほつれて、己の目が唯々既存の概念の上にへばり付いていたことに気付く瞬間。日常の異化、だがそれは、新しい物語の始まり。落合の目は日常からほんの少し離れた場所を指し示してくれる。この些細なズレが、魔法のように世界を変える。大げさに思われるかもしれないが、このささやかな変化こそ大きな何かにつながっている。
例えば、「ビニール・ペインティング」。カーテンのように壁に留められた何の変哲もないビニールには、色が撒かれ、ささやかに揺れる度、風の形を映し出す。壁に映る影には、撒かれた色が反射して、たちまち影と光の境目を見失う。それから「ブロークン・カメラ」。
「ある時ビデオカメラを再生しようとしたら、カメラが壊れていて、映像はめちゃくちゃになっていた。再生する度に違ったエフェクトがかかる、天気のように変化する機械。」という言葉に導かれるように、壊れたカメラが映す世界は、「壊れた」という概念を超えて、もうひとつの世界を映し出す。つまりはもう壊れてなどいない、切り取られたひとつの世界を。あるいは「熱帯雨林のドローイング」。作者が実際にジャングルで迷子になった経験から作られたというそれは、鉛筆も紙も見ないで描いたというが、その線は「混迷」と同時にジャングルの静けさまでをも含んでいる。精密に選ばれた色が、混乱する人間の感覚の先の自然の静けさを呼び起こす。
 僅かな視点のズレによって見失われる境、そして立ち現れる世界。それははじめから世界をひっくり返してやろうという野心によってではない。あくまでも日常を凝視する目によって、ささやかなズレによって、繊細な線と光と影の息遣いをトレースするように。
 そして、特筆したいのは、落合の言葉に対する姿勢だ。感覚によるズレを言葉にすることで、身体は既存の概念から解放されたことを認識する、と同時に身体は次の概念への拘束へと向かうだろう。自由と不自由のスパイラル。落合にとって言葉とは、アートを解説するものではなく、アートの身体性を映し出す鏡なのだ。「溶ける言葉」は端的にそれを表している。つっかかりを見せながらエンドロールのように巻き上げられていく言葉は、エンドロールどころか永遠に終わらない言葉として何度も目の前に現れては、身体の内へ溶けてゆく。身体から発せられたはずの言葉が、身体に回収されていく、その違和と心地よさ。最後に、落合の言葉を引く。
「スパイの活動とは南はどこからどこまでだろうかと考える事に似ている、
 南に行けばいつか南極に着き、その後は北に向かう、南に向かうとは北に向かう事であるのだ、
スパイの活動は普段目にはみえないが、そのスパイが失敗した時に初めて明らかになる、」

世界は果てしなく、ささやかな呼吸に満ちている。落合の作品は、そんなことをふいに手渡す。

(※落合の言葉は全て展覧会リーフレットより引用)



一方井 亜稀(いっかたい あき)

1979年 宮城県生まれ
詩誌「ウルトラ」12号・13号に寄稿
詩誌「kader0d」 3,4号に参加。
この春、第一詩集『疾走光』を思潮社より上梓。

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