海埜今日子の詩はやさしい。この「やさしさ」はどこからくるのか。この点を探ってみたい。
海埜今日子の作品の印象は、ぎりぎりおいつめられたところで、開き直った、脱力した身体だ。
ほんとうに脱力されると、人間の体は水の詰まった袋になってしまう。どこに力を掛けていいのかわからない、とりとめのなさと、水の重さ。私がならっていた柔術の練習では、この水袋をイメージしろということを、何度も言われた。ポリ袋に水を詰めたときのように、七〇キロなら七〇キロある男の体が、急に水袋になってのしかかってきたり、胸元からぶら下がったりすると、どんなに力をだしてもたまらず「崩し」をかけられて転げてしまう。
海埜今日子の詩も、読み手が武装している精神を、ひらがな主体の表記でやわらかく突き転ばそうとしている。また、ひらがな表記以外にも、「やさしさ」の仕掛けがあるように思える。「蛋白石」という作品を例に取ろう。
まなつのゆきをもちはこび
くるったなみになげいれよう
たてもののないけんちく
がらすのないきょりのはてで
かけがえのないほうしゅつをてにてにとり
わたしたちはぐるぐるする
たんぱくせき、はだをつめたい
かけたことばはひかっていた
ふざいばかりがあつくなるので
まなつのすいちょくをつきやぶる
たのしいばしょにしびれがはしった
(「蛋白石」冒頭)
「まなつのゆきをもちはこび」からは今にも溶けそうな手のひらの中のエーテルのようなものを、一心に運ぶ人の姿がイメージされる。「くるったなみ」は、外界の騒々しさや、社会の暴力性のメタファーだろうか。「たてもののないけんちく/がらすのないきょり」と、存在しないものの列挙が続く。「かけがえのないほうしゅつ」というのも、かき消えそうな詩人の心のエーテルを指すのだろう。「ふざいばかりがあつくなる」は、「たてもののないけんちく」の行を受けている。現代社会は狂奔する怒濤のような暴力性で人間に迫ってくるのに、それを訴えかけようとするととりつくしまもなく冷たい表情を見せる。機械とシステムが横行して、人間性の見えない社会。そんな社会に対して、詩人は自身のエーテルを抵抗として「なげいれ」ているというのだろう。
こう考えてみると、七行目「たんぱくせき、はだをつめたい」のみが、メタファーではないように思える。ここの行だけが、実感を伴った身体表現になっている。そして、この行の表現は、二重性を帯びた表現になっている。ほんとうはこの行は「私の肌に、蛋白石が冷たい」か「蛋白石が私の肌を冷たくする」かのどちらかを意味する表現になっていなければならないはずだ。私を中心とする主体的知覚と蛋白石を中心とした受け身的知覚がこの行でせめぎあっている。
しかし、本来、皮膚は外部と内部の接点であり、皮膚知覚は「私が知覚している」と「私は知覚させられている」という能動と受動とが不分明なせめぎあいを起こす場である。その意味では海埜今日子のこの行の書き方にはリアリズム的な正しさがある。
そしてより重要なのはこの行がすぐに次の八行目の「かけたことばはひかっていた」に続くことだ。八行目は意味としては「言葉掛けをする」と「欠けた言葉」の二重性を持っている。詩人は、ここで、「言葉も皮膚同様に外部と内部の接点なのだ」ということを言おうとしている。ここで詩人の言葉に対する感覚が露わになる。海埜今日子は言葉を皮膚のようなものだと見なしている。そして、おそらく「詩は言葉という皮膚の凝った石のようなものだ」と言いたいのだ。それが、「蛋白石」というタイトルにあらわれている。通常われわれの知っている呼び名の「オパール」では、この意味合いが表現できなかったのだろう。
読み手は、この詩集を読みながら、雨のようにおびただしい言葉のつぶてに打たれ、のびやかな言葉の皮膚に包まれる。これが、海埜今日子の詩の「やさしさ」の正体だろう。つぶてと皮膚の、交互に繰り返されるリズムも、有機的な生命感を構成している。すぐれた詩集である。
この詩集以外にも海埜は近年、同人誌「hotel」「すぴんくす」「ヒマラヤ」で精力的に作品を発表している。いま、最もその作品を読むのが楽しみな詩人である。
(「セボネキコウ」海埜今日子 二〇一〇年 砂子屋書房刊)
この文章は詩の同人誌「ウルトラ」14号に掲載予定のものです。「ウルトラ」14号は2010年夏頃発行予定です。予約購入希望の方は、及川宛メールアドレスm31oikawa@goo.ne.jpまでお問い合わせ下さい。
海埜今日子「セボネキコウ」を読む
及川俊哉
及川 俊哉(おいかわ しゅんや)
1975年岩手県生まれ。現在は福島県在住。
2005年、12月23日、は東京駅「銀の鈴」前で突如として「ウルトラ」2代目編集長に任命され、現在に至る。
2009年 詩集『ハワイアン弁財天』(思潮社)発表。















