4 詩の書き方を考える
詩をどう書いたらいいのか。そのような問いは後を絶たない。最近出版された季刊「びーぐる」第7号では、「詩の書き方・実践編」という特集が組まれている。私は、今まで「詩の書き方」の本をあまり読んだ記憶がない。というよりも、詩の書き方を実際に手ほどきするような書物を未だに知らない。具体的に詩を書く上で参考になったのは、入沢康夫『詩の構造についての覚え書』(思潮社)、北川透『詩的レトリック入門』(思潮社)と野村喜和夫『現代詩作マニュアル』(思潮社)の3冊である。他にも、詩の読み方や考え方については枚挙の暇がないほどの書物に教えられたが、「実践」という点においては主にこの3冊がいわばバイブル的な存在であったといえる。
詩を書くというのは、言葉を学習し直すという行為ではないかとその3冊を読みながら、考えた。入沢氏の一貫した主張である「詩は表現ではない」という言葉には洗礼を受けた。この書物と出会っていなければ、私は今尚詩を書いていないであろう。人は誰でも詩人になれる時期や詩人である時期がある。青春の悩みや恋などプライベートな内容について記述する場合、詩の形式が最も適切であると無意識に選択する時期がある。しかし、それはほとんどの場合、自らの感情の熱が冷めると同時に終了する。それは結局詩が「自己表現」に留まっていることを証明している。
北川氏の著書は、「なぜ詩の形式を選択するのか」という根本的な問いを最も忠実に分かりやすく記述している。「詩とは何か」という問いは古いし、あまり有効でない。もちろん、考察する意義が全くないとはいえない。しかし、それよりもある作品が「どうして詩ではないのか」を出来る限り厳密に分析する方がその問いにより適切な答えを提示出来るのではないだろうか。「散文だから詩ではない」や「詩は抒情詩である」などという様々な言説の混乱や衝突はやはり詩を厳密に分析しようとする努力を回避したところに生じる。そのような混乱から離れて見るためにもこの本は欠かせない。私は、この書物を詩を書き始めの頃に渡辺玄英氏にすすめられた。その時、渡辺氏はこの本のことを「教科書のようなもの」と述べていた。
また、野村氏は著書の冒頭で「詩を読む。詩を書く。それは言葉によってわれわれのこの生を確認し、捉え直し、あるいはさらに更新し、生き直してゆくことにほかなりません」と述べている。一貫して、「現場主義者」の立場から評論を展開する稀有な存在である著者がまさに「詩を書く」ことの手ほどきの書物であるが、「詩にはこれといった決まりも書き方もありません」と本文は始まり、「詩の歴史」が戦後から語られる。また、「詩の原理」においては「詩は言葉による世界の捉え直し」という言葉が繰り返し述べられている。
「詩は言葉による世界の捉え直し」という認識は、人間が言葉によって世界を認識する存在であるという前提がある。言葉がなければ、世界が存在しないといえば言語絶対主義のように思われるが、言葉でしか捉えられない世界があるのは確かであり、それがあるからこそ小説なども流通している。文学は基本的に言葉だけで成立する。もし人間が言葉によって認識を持ち、それを基に生きているのであれば、文学は習慣化した人間の認識を変革する役割を担う。そうして、詩はその変革を小説や散文よりも刺激的に行うものであるように思われる。つまり、人間の世界認識を最も揺さぶる表現形式が詩なのである。
以前、高橋源一郎氏の小説や評論を集中的に読んでいた時に、氏が若い時に失語症になり、そこから言葉のリハビリを行ったことを知った。それは、普段無意識で反射的に使用している言語を意識的に捉え直す行為であったように思われる。高橋氏が2002年に発表した『一億三千万人のための 小説教室』(岩波新書)には、次のような重要な記述がある。
人間は、だれだって、はじめのうちは、なにごとにおいても素人です。だから、自分から進んで、というよりは、社会がそういう具合にできているので、周りの人たちからいろいろ習わなきゃならない。
(中略)
頼れる先輩も、助けてくれる先生もいない。すべてを自分で切り開かなければならない、その人だけの道が目の前に現れる。
考えれば、当り前な話である。詩も小説を書くことと同じようにマニュアルはない。ただ、過去の作品やそれについての優れた批評(分析)があるだけである。そうして、高橋氏は「傑作」とは「その小説家が、最後にたったひとりでたどり着いた道、その道を歩いて行った果てにあります」と述べる。だが、そこに行くまでには最初からそのような独創的で固有の道が開かれている訳ではない。この本の「レッスン6」において「あかんぼうみたいにまねること、からはじめる、生まれた時、みんながそうしたように」という章がある。そこでは、村上春樹とチャンドラー、高橋氏自身と太宰治の文章などがそれぞれ比較されている。前者が後者の影響を受けている点とその影響を自分のものにしていくプロセスについての説明がある。確かに、「まなぶ」は「まねぶ」であり、どのような独創的な表現もその源泉はどこかにある。お手本にしたものと書き手の個性や技術がどこまでうまく結合出来たかが作品の質に反映される。
では、実際に作品はどのように書かれているのか。「びーぐる」第7号はそれに出来るだけ接近し、具体的な書き方や先述した「まねぶ」行為についての記述があると期待を込めて読んだ。だが、そこには詩人たちの「言い訳」としか読めない弛緩した文章や明らかに問題をズラしたものもあり、期待外れの印象を拭えない。中にはこの特集自体に対する批判のようなものさえ存在する。しかし、真摯に応答する文章もあり、その一部を紹介したい。廿楽順治氏の「「うつす」を書く」という論考である。
廿楽氏は最近版画家の宇田川新聞氏とコラボレーションを試みている。作品自体は、『うだがわ草紙』というシリーズで、ネット上で公開されている。私は「生き事」という同人誌において何点かの作品を読んだことがある。宇田川氏の版画に廿楽氏が詩をつけるという共作である。これは単なる「自由に書く」ものではないから、そのプロセスが見えやすい点もあり、「びーぐる」の論考において廿楽氏の詩の書き方がドキュメンタリータッチで叙述される。面白いのは、初稿から一応の決定稿へと書き直すまでがかなり具体的に詳しく描写されている点である。その一部を引用してみる。
書くときのスタイルは、どうしても読者としての自分の嗜好に合わせてしまう。漢字が多くて長い行は、どうもまじめに読めない。長い行は文体に余程の強度と刺激がないと、なかなか読み手が最後まで付き合ってくれない、という信仰が自分にはあるみたいなのである。
廿楽氏は、具体的に読者側の立場で詩を書いていることを告白している。それは、多数の書き手が実践していることかもしれない。だが、論考に度々登場する「自分の嗜好」が高橋氏の述べている「その人だけの道」と重なる。そうして、「詩の書き方」について語る場合に「自分の嗜好」と「読者」に寄り添っている廿楽氏の姿が非常に誠実に見える。また、野村喜和夫氏も同様のメイキングを公開しており、近作「デジャヴ街道」の作品の成立について詳細に語っている。そこでは「言語による言語の批判」が中核にあり、それは「世界が現状のようにあることへの怒り」へと結びつけられる。それは自身の理論である「詩は言葉による世界の捉え直し」を実践するものでもあるだろう。
「詩を書く」ということは抽象論で語ってはいけない。私はそのように考える。確かに、それを意識的に考えるのは難しく、それを言葉で辿ることは困難である。事後的に語れたとしても、廿楽氏のように「自分の嗜好」と「読者」というものが中核になることがほとんどであろう。しかも、「読者」=「書き手」であることも多い。自分が普段行っている行為を言語化するのが難しい。人間の行為は、無意識的で習慣的であればあるほどそれを意識し、認識することの困難さは増す。詩人にとって、詩を書くことが当たり前であるが故にそのメカニズムを解明することが困難なのは当然である。それでも、より優れた作品を書こうとする場合に「詩を書く」という行為を強く意識することは重要であろう。そうして、それはまた表現が「自分の嗜好」だけに閉じてしまわないためにも重要なのである。
私見では、「びーぐる」の特集が組まれた背景には、ネット上に溢れる「自己表現」の詩が関係しているように思われる。現在の詩人がそれに対してどのような危機意識を持っているかどうかが本来論じられるべきであったように思われる。今後、もともと境界のない詩の世界のプロとアマチュアの差がむしろ「詩の書き方」によって提示されることを望みたい。そうしなければ、詩の本当の「おいしさ」が語られず、誰もが「詩に書き方なんてありません」と説明責任を回避するようになる。そうして、それはジャンルとしての「現代詩」の質を低下させる可能性が考えられる。今こそ、詩人はプロである限りは自らの創作のメイキングを語らないにしても、強く意識する必要を迫られている。
最後に、谷川俊太郎氏の『詩を書く』(思潮社)に収められた「詩人とコスモス」の文章の冒頭部分を引用してみる。
なぜあなたは詩をつくるか、という問は、詩人、楽しみに詩をつくる人ではなく、自分の人間としての仕事として詩をつくることを選んだ本当の詩人にとっては、なぜあなたは生きているのか、という問と変らないとぼくは思う。その先ず第一の答は、そうしたいから、という答であり、そして次の答は、そうしなければならないから、という答だ。この二つの答は、時にとけあって一つの答になってしまう程、互に密接に関係している。詩人が詩をつくる時、つくりたい、とそして、つくらねばならぬ、という二つの気持は、つくる、という行為の中に昇華されて一つのものになる。
詩の現場から③ 「びーぐる」第7号を中心に
松本秀文
松本 秀文(まつもと ひでふみ)
1979年 12月20日生まれ。いて座。A型。福岡在住。
既刊詩集に『鶴町』、『白紙の街の歌』(ともに思潮社)などがある。
詩の朗読でも地味に活躍中。詩誌「ウルトラ」同人。
ブログ「sokudotaroの日記」時々更新中。http://d.hatena.ne.jp/sokudotaro/















