風が知らないと言った。
デパート三〇三の入口……
*
星と星の狭間の迷路……そう呼んでいる。勝手に。わたしは彷徨っている。暗い、何一つ見えない場所。何かに触れることがあっても、それが壁なのか、柱なのか、鍵のない扉なのか、わからない。ここは一つの大きな部屋で、わたしはそこに閉じ込められているんだろう。歩き回っては、しゃがみこみ、また歩き出す。閉じ込められているというよりは、彷徨っているという方がステキだ。そしてここは、星と星の狭間の迷路……
*
長い階段を登ってゆく。
ただ空を行く道。
ときどき、雲の中に入り込むと、カフェがすがたをあらわす。人はいない。
どれも同じような、そっけないカフェだ。雲から顔を出してみれば、そこに空はなく、明るい木の材質の床と壁で、大体五、六のテーブル席がある、どこにでもありそうなカフェ。違うのは、窓や扉がなく、カウンターの奥もない。階段があるだけだ。
最初は気がとがめたけど、ポットいっぱいに入っているお湯で、コーヒーやココア(そうだ僕は、ココアが好きだった)を作っては、ひとくち飲んでほっとする。ビスケットなんかも、つまむ。(あまり、おなかはすかない……)
だが、天井は雲でできていて、軽い休息を済ませ、階段を登りそれを抜けるとまた空をゆく道が続くのだ。
階段を何百とのぼっても、間にある雲は小さくてあっという間に抜けてしまったり、がらんどうだったり、ただ浮かんでいるだけだったりで、もう休める場所はないのか不安になる。先ほどのカフェが最後の休息所だったのかと。
そう思うと、少し心細い。
だけどやっぱり、またそのうちに雲の中に、カフェは現れる。
僕はそうやって少しずつ、休んでは、どれだけ空を上へと進んでいるだろうか。
この道はどこへも続いていない。死が、到達点であるなら、どうせ何もない地上での人生と変わりばえもなしか……。いや、それでも僕はあの何かとあった(?……それもよく思い出せない)地上での暮らしから解放され、今確かにゆっくりと穏やかな、死へと向かっているということなのか。
そう思うのはまた、すこし残念なような、それもまたよしのような。でも、何が今更……どのみち、……もう地上は見えない。
(からだは眠くない…… 眠るとしたら、それはもう、ずっと眠り続ける眠りになる気がする……(いやもしかしたら僕は…… ……
もうどのみち、すべてが終わってしまっていた後なのなら。
*
まっ暗なその部屋の中で泣いていたら、何処かで雨の音がした。
だけど窓の場所さえわからずに、わたしは泣くのをやめ、そこにうずくまったまま、ただ雨がふる音に耳をすませている。雨はわたしの右で、左で、上で、ずっとわたしを巡ってふっていたのだ。雨の音はちいさな滝のようになり、緩やかに海へそそぐ河口のようになり、ながされていく。わたしは、ながされていく。そうやってわたしは、巡っていく。……
*
風が、神妙なおももちで吹き去っていく。風たちの司だろうか。どの雲も、佇まいは厳かだ。雲は、古くからもう形を変えていない古老だろうか。
今、空は、どれだけ深い青みを帯びて見えるだろう。こんな空を見たことがない。……
何か、果てが近づいているのだろうか。
僕の歩みは以前にもましてゆっくりになった。気分は、重く暗く、だけどそれは滅入るような気分じゃなく、とても澄んだものと思えた。
それから、しばらくもしないうちだった。
今までの雲よりも、明白に、巨大でありひとめで他と違い尊厳すらある雲。そして、雲上に屹立する建物は王の冠のようであった。雲と建物は、半ば空の頂の、深みを帯び切った青と混ざり合い、紫色にみえた。あるいは後ろに、昔の太陽をでも隠しているのだろうか。
それは神の雲であり、建物は神殿であるかと思えた。
が、まぎれもない、あのデパートだった。
*
屋上遊園地に聳える、観覧車に乗り込む。そこから見渡せたのは、何だっただろう。空はとても近くでも先は見えなくて、何があるのだろうと思った。見下ろすと、きらきらとしていた……あれは、何だったろう。観覧車から降りて、またわたしは。……
*
階段はおわった。
あのデパートに続く道はないようだ。
僕の旅の終わりは、この神の空にあって微笑ましいほど小さな雲(だけどきっとそれには理由があるんだろう。戦いで死んだ雲かも知れない)の上にぽつんとある、最後のカフェ・レストだった。
あの巨大な雲は届きそうだ。届きそうで、遠すぎる。
デパートは今、影として聳え、まるっきり神殿だ。霧がかかって頂は見えないが、屋上にあるのは、観覧車のようだ。
雲の上に、カウンターと、テーブル席一つ。ここにも、ポットにお湯と、ココアの袋が置いてあった。だれだろう、ほんとに気がきくな……。カウンターを背に、テーブル席に着いた。気難しそうな風たちが、僕の頭の上を過ぎていく。いちばん高い空だ。天使をかたどったコップで一口、ココアはうすめの、あまい味がした。今、古い風がひとり、テーブルの前の席に腰かけてくれたみたいだ。あなたはどれだけの空や、風景や、それとも人の暮らしを見てきたのか。死にゆく前の、穏やかな風の表情。僕も、穏やかに微笑んでいるのだろうか。コーヒーを入れるか、それともココアを……。
あの巨大な雲にもまたそこへ続く階段があって、今、たくさんのもの達がそれを続々と登ってきた。小さく、賑やかなラッパの音や太鼓が響き、パレードのようだ。あるいは、葬列のようだ。彼らもまた深く紫色に沈んだ、ほとんど影絵だ。どうぶつのようにも、オモチャみたいにも見える。どこまで続くのだろう、あの行列……なんだか可愛い眺めじゃないか。風は、もういなくなっていた。
…… ……
*
わたしが目をさますと、やっぱりまっ暗い部屋で、だけれど、其処此処に、星が……。
まっ暗やみに星は輝いているけど、どこにも辿りつけない。すべての星は、かなしいほど小さい。
わたしは彷徨っている。わたしはながれている。わたしは眠っている。わたしは巡っている……わたしは……
*
――声をひそめて。
風が知らないと言った。
デパート三〇三の出口……
*初出:『詩誌酒乱』vol.3(あんど出版)2009.7
デパート三〇三
今唯ケンタロウ















