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四次元戦争論

及川俊哉

 現在のわれわれ人類の根本的な性格を基礎づけているのは、われわれが核兵器に代表される大量破壊兵器を持つことで「自らを滅ぼしうる種」になったという事実でありますが、この問題を取り上げて、「滅亡の意味」や「自らを滅ぼしうる」ようになったということはどういうことなのか、を追求した作業はこれまであまりにも少ないものだったと思います。
 そこで、ここでは、意図的に「滅亡」の側面に光を当て、「滅亡」がわれわれにとってどのような意味合いをもつのか、われわれが自らを滅ぼすときに起るであろうさまざまな認識上の問題、また「滅亡」という問題をいかによりよい方向にひらいて考えることができるか、などを考えていきたいと思います。そのことが現在の人類の根本的な理解に役立つと思われるからです。
この項は全体で四回の連載とし、
①「滅亡」が引き起こす認識上の矛盾の考察
②「滅亡」と「時間」の関わりの考察
③「滅亡」がわれわれに与える影響の考察
④「滅亡」の影響を乗り越える方法の考察
の順で記述していく計画です。
 さて、はじめにタイトルの解説をしておきます。「四次元戦争」とは石原莞爾の代表的な著作『最終戦争論』から借用した戦争概念です。石原莞爾は『最終戦争論』において人類史に見られる闘争の発展形式を独自の次元理論によって表現しています。
 われわれは第一次欧州大戦以後、戦術から言えば戦闘群の戦術、戦争から言えば持久戦争の時代に呼吸しています。第二次欧州戦争で所々に決戦戦争が行なわれても、時代の本質はまだ持久戦争の時代であることは前に申した通りでありますが、やがて次の決戦戦争の時代に移ることは、今までお話した歴史的観察によって疑いのないところであります。

 その決戦戦争がどんな戦争であるだろうか。これを今までのことから推測して考えましょう。まず兵数を見ますと今日では男という男は全部戦争に参加するのでありますが、この次の戦争では男ばかりではなく女も、更に徹底すれば老若男女全部、戦争に参加することになります。
 戦術の変化を見ますと、密集隊形の方陣から横隊になり散兵になり戦闘群になったのであります。これを幾何学的に観察すれば、方陣は点であり横隊は実線であり散兵は点線であり、戦闘群の戦法は面の戦術であります。点線から面に来たのです。この次の戦争は体(三次元)の戦法であると想像されます。
 それでは戦闘の指揮単位はどういうふうに変化したかと言うと、必ずしも公式の通りではなかったのでありますが、理屈としては密集隊形の指揮単位は大隊です。今のように拡声器が発達すれば「前へ進め」と三千名の連隊を一斉に動かし得るかも知れませんが、肉声では声のよい人でも大隊が単位です。われわれの若いときに盛んにこの大隊密集教練をやったものであります。横隊になると大隊ではどんな声のよい人でも号令が通りません。指揮単位は中隊です。次の散兵となると中隊長ではとても号令は通らないので、小隊長が号令を掛けねばいけません。それで指揮単位は小隊になったのであります。戦闘群の戦術では明瞭に分隊――通常は軽機一|挺と鉄砲十何挺を持っている分隊が単位であります。大隊、中隊、小隊、分隊と逐次小さくなって来た指揮単位は、この次は個人になると考えるのが至当であろうと思います。
 単位は個人で量は全国民ということは、国民の持っている戦争力を全部最大限に使うことです。そうして、その戦争のやり方は体の戦法即ち空中戦を中心としたものでありましょう。われわれは体以上のもの、即ち四次元の世界は分からないのです。そういうものがあるならは、それは恐らく霊界とか、幽霊などの世界でしょう。われわれ普通の人間には分からないことです。要するに、この次の決戦戦争は戦争発達の極限に達するのであります。(『最終戦争論・戦争史大観』石原莞爾 中公文庫一九九三)


 石原莞爾は戦争の発展を方陣の点(ゼロ次元)、横隊や散兵の線(一次元)、戦闘群の平面(二次元)と次元増加的にとらえています。また、この発展形式を推し進めて、この当時戦闘に使われ出した飛行機の発達が、立体(三次元)の戦争形式を生むだろうと述べています。
 石原莞爾はこの発展形式がアメリカと日本の間に空中戦を主体とする戦争を必然的に引き起こし、その勝者が世界の支配権を握ると考えていました。その理由を石原は「四次元戦争の形式は人間には理解できないからだ(われわれは体以上のもの、即ち四次元の世界は分からないのです。)」と述べています。この予言が実際の歴史上どの程度当たっていたのか、また石原莞爾自身の政治的な信条やその行動の是非はここでは問いませんが、この次元戦の考え方は、これまでの戦争の在り方をうまくまとめていますので、この考えを借りてわたしの論も進めていきたいと思います。
 石原莞爾は四次元形式の戦争は考えられない(「そういうものがあるならは、それは恐らく霊界とか、幽霊などの世界でしょう。」)と述べていますが、ほんとうにそうでしょうか。
 わたしたちは現在、四次元世界がたて・よこ・たかさの三つの次元にくわえた一次元の「時間」で構成されていることを知っています。そうであるならば、「四次元戦争」とは時間軸上の戦争なのではないでしょうか。
 今の段階では、まだこの言い方を比喩としてとらえていただいても結構です。わたしたちは、数学的に次元を拡張して、「四次元戦争」を比喩的に時間軸上の戦争として考えてみましょう。そこでは、未来と現在が戦争をしているはずです。
「未来を破壊する」というこの言い方を、比喩としてとらえてみてください。「人類の未来を破壊する」という言い方は、「人類の滅亡」を意味しているはずです。
われわれ人類が自らの未来を破壊する力を手に入れた日、つまり原子力爆弾が実用化され、アメリカ軍によって広島に投下された一九四五年八月六日を人類史における「四次元戦争開戦の日」と考えることができるでしょう。そして現在にいたるまで核兵器の破壊力による軍事競争が解決されていないこと、また核兵器と同様に人類を滅亡させうる大量破壊兵器がさまざまに開発されていること見ると、「四次元戦争」はいまだに継続中であり、またこれを終息させる方法はまだ見つかっていないのだということができます。
われわれは人類史のみならず、この地球という惑星史において未曾有の事態を生きているといえます。現在まで生命がその発生から営々と種を維持している事実を考えると、これまでの生命史上自らを滅ぼしうるだけのエネルギーを操作し、ましてそれを破壊の目的として使用したことはないと考えられるからです。


 さて、滅亡の問題を考えていくために、これを大きく「自然の影響による滅亡」と「人間自身の問題による滅亡」に分けて考えましょう。
「自然の影響による滅亡」とは、たとえば巨大隕石が地球に衝突したり、治療不可能な病気によって人類が滅亡してしまう場合です。この場合は、もちろん人類はさまざまに防御策はとるでしょうが、もしこれらの対策が功を奏さなかった場合、人類は外的要因により滅亡することになります。この滅亡パターンは、考えやすいものでしょう。生命自体がその発生から幾度もこのような「自然の影響による滅亡」の危機をくぐり抜けてきていますし、火山の爆発によって滅びた町(ポンペイなど)を見て「いつか人類全体がこのように自然の影響によって滅びるのではないか」という類推がうまれることもありました。神話や伝説に残る「滅亡」の概念はこのような自然現象を背景に生まれてきたものだと言えるでしょう。
一方、「人間自身の問題による滅亡」のほうは、少々わかりにくいかもしれません。というのは、この滅亡はいわば「新種の滅亡」とでもいうべきもので、ここ百年ほどの科学技術が幾何級数的に扱うエネルギーの桁数を上げてきたことによって生じた滅亡だからです。少々余談になりますが、科学技術の発展はその扱うエネルギーの大きさを指標として画期されるのだとも言えます。てこの技術を持った時代からはじまり、風水力を活用しだした時代、蒸気機関の普及した時代、化石燃料による内燃機関の普及した時代を経て、現在ようやくわれわれは原子力エネルギーを活用に端緒をつけだした時代に生きているのだと言えます。
 いま、物の大きさを比較するために、人間を10として計算してみると、地球はだいたい10の7乗倍ほどの大きさになります。原子力の力で、人類は地球を破壊できるようになったわけですから、物を動かすときに手を使って運んだりころがしたりしていた時代から比べると、乱暴に比較してみても10の7乗倍ほどのエネルギーを扱い得るようになったのだということができるでしょう。
 この、取扱い可能なエネルギー量の急激な増大が、「人間自身の問題による滅亡」を生み出しているのだと言えます。
 簡単にまとめますと、「自然の影響による滅亡」は人類の外部からやってくる可能性のある滅亡であり、「人間自身の問題による滅亡」は人類に内在的な性質から起る可能性をもった滅亡だということになります。
 さて、このような事態に対して現在大きな思潮として現れているのがエコロジーです。わたしはエコロジーが人類のエネルギー使用量の拡大に伴うさまざまな難点に実践的に取り組もうとしていることに一定の評価はします。しかし、わたしがこの論考で考えようとしていることは、エコロジーの実践的な問題解決の方法とは大きく異なります。
 わたしはいうなれば「自らをさいなむ加害性を内在させることとなった人類」の現状を追求して考察してみたいのです。
 この点は、例えば次のようなショーペンハウアーの悲劇論を参照していただければわかりやすいかもしれません。
 ショーペンハウアーは悲劇を三分類し、一を極悪人によるもの、二を盲目的な偶然によるものとし、最後に一般的な人間の相互関係による悲劇を挙げます。

 最後の不幸となると、われわれに示されているのは人生を乱し幸福を破るあの種の力であって、われわれにしてもいつなんどきそのような力に巻き込まれることにならないとも限らないのだ。肝心な点はわが運命からも想定ができる(誰にも身に覚えのある)人生の紛糾によって最大の苦悩がひき起こされるのであり、時と場合によってはわれわれもひょっとして犯しかねない行為によって最大の苦悩がもたらされるのだから、われわれには不正を嘆くことさえ許されてはいないのだ。このような力を見せつけられると、身の毛もよだって、われわれは地獄のただ中にある心地さえするのである。(『意志と表象としての世界』「世界の名著四五」中央公論社一九八〇第三巻第五一節)


 つまりショーペンハウアーは「人間にもともと備わっている性質が人間を苦悩させるとき、その苦悩は最も悲劇的である」と言っているのです。だとするならば、核兵器に代表される過剰なエネルギーの使用によって自らを滅ぼしうる可能性をもつにいたった人類は、全く「悲劇的」な存在だと言えるでしょう。
 この悲劇の性質を明らかにしようというのが、本論のねらいになります。しかし、この点を追求していく前に準備としていくつか明らかにしておかなければならない問題点があります。今回はこの点を考えていくことにしましょう。
 まず、確かめておかなければない大前提があります。いったい、人類は自らが滅亡する瞬間というものを認識し確認することができるのでしょうか?
 答えは「不可能」です。
 人間は滅亡を想像することはできますが、滅亡を確認することはできません。少々このあたりややこしく感じられるかもしれませんが、理屈としてはそれほど難しくはありません。どれほど大規模な破壊があったとしても、死亡するのは個々の個体としての人間です(石原莞爾が『最終戦争論』で「戦争の単位が個人になった」と言っていたことを思いだしてください)。たとえ人類が滅亡を迎え死に絶えたとしても、個体が死を迎えるその理由が特異だったというだけで個々人の死のありさまとしては平時の個々人の死のありさまとなんら区別される部分はありません。
 ところで、人間は自分の死を確認することはできるでしょうか?
 この答えもむろん「不可能」ということになります。死は同時に意識の死も意味しますから、死ぬ瞬間を越えて意識が存続しないかぎり、自分の死を認識することはできないでしょう(この論考では死後の意識の存在を考慮に入れることはしません)。
 個体としての人間が自分の死を認識できないならば、その集合である人類も、自らの滅亡を認識することはできないでしょう。
 逆に言えば個々人の死は「滅亡素」とも言うべき構成要素であり、「滅亡素」がすべて集合した状態が「滅亡」であると言えるでしょう。「死=滅亡素」と「滅亡」の間には、それを迎える当の主体にはそれを確認するすべがないという共通点があります。
 いっぽう大きな相違点としては、個々人の死はまだ他者によって確認され得ますが、「滅亡」はそれを確認する他者がいないので(この論考では人間以外の理性的存在者の存在を考慮に入れることはしません)、全くの認識の空隙になると言う点が挙げられます。人間の視覚の中にも盲点という知覚の空隙があることはよく知られていますが、それと同様に、滅亡は人類の知るすべがない認識の空隙なのです。
 この認識の空隙は人間の認識力の矛盾が生み出したものです。核兵器は人間の認識力がこの宇宙の法則を解明して生み出した兵器です。しかし、同時に核兵器が人類の滅亡の可能性をも切り開いてしまった。滅亡はいま述べたように認識することはできません。認識によって認識できないものが生じてしまうというのは、認識の矛盾です。
 さて、この認識の矛盾により二つの奇妙な現象が生じます。
 一つは現実のイミテーション化です。ひとつ、SFじみた空想から話をしたいと思いますが、ここにひとりの思考を飛躍させやすいタイプの人間がいると仮定してください。
 そのひとは、かわった考えをもっていて、広島に原爆が落とされた日に、たまたま計算の狂いから核分裂反応が予想以上に連鎖してしまい、地球はこの一発の原爆で滅びてしまったと考えているとします。そして、その後死者の想念によって現在の現実が再現されているとも考えているとしましょう。
 もし、このような現実感覚(この世界はイミテーションの世界だという感覚)を持っている人間がいた場合、現実世界とイミテーションの世界を識別することはできるでしょうか。
 この答えも「不可能」です。
 本物の世界やイミテーションの世界を識別することは、いちどこの世界を出て、他の世界を自由に参照することができて初めて可能になります。「この世界はイミテーションです」と親切に明記してある世界でなければ、その世界の真実性を識別することはできないでしょう。この世界をイミテーションとして見る現実感覚は、病理学的には離人症と言う形で心理学的には認知されているようです。
人類が核兵器を持ち滅亡の可能性をひらいたと言うことは、世界の真実性への疑いを生じさせたと言うこともできるのです。
もちろん、この世界のイミテーション性を積極的に主張することはできません。またしかし、同時にこの世界の真実性も積極的には主張できないはずです。
この世界がイミテーション化し、離人症的に眺められる原因の一つに、人類が自らを滅ぼしうるようになったことが挙げられるでしょう。
 また、この認識の空隙により、もう一つ困難な問題が生み出されます。それは、人間自身が自らを滅ぼすことを禁止する明確な理由を生み出しにくくするという問題です。
滅亡の問題を考える際、常に意識していなければならない反論は、「なぜ滅びてはいけないのだ」というものです。たしかに滅びてしまえば、被害者はいませんから、被害を訴え出る者もいません。被害届がなければ法は動き出しませんから、完全に人類の息の根を止め、口を封じてしまえば、何もなかったことになって別に何も問題はないのかもしれません。
しかし、ここには矛盾があります。どの人間も人類の一部である以上、人類が滅びた後を認識できる人間はいないはずです。滅亡はその禁止も(「滅亡させてはいけない」)滅亡の促進も(「滅亡させたっていいじゃないか」)も積極的には言うことはできないのです。   
つねに、それら滅亡の倫理(反倫理)に関わる言葉はそれらがあたかも滅亡以後からわれわれを振り返るような言説になりますから、人間にその倫理(反倫理)を唱えることはできないのです(倫理は常に人間に上の立場から命令します。人類を上の立場から眺められる人間はいません)。
 倫理に頼らず滅亡の問題を追及していかなければなりません。このほかにもいくつか反論が考えられますから、取り上げて考えていきましょう。

*「自然の影響による滅亡」と「人間自身の問題による滅亡」の何が違うのか?
 自然の影響による滅亡は致し方ないですが、人間自身の手で人類を滅ぼすことはなんとなく耐え難いものがあるように思います(人類の外に立つことはできませんから、なぜ耐え難いのかという理由は挙げることが不可能のように思います)。

*人類もそこまでばかではないので、自力でなんとか存続していくのではないか?
 このような考え方を、「素朴存続論」と呼びましょう。素朴存続論は、おそらく滅亡の問題を考える際に多くの人が最終的に導き出す結論ではないかと思います。しかし、素朴存続論には根拠がありません。われわれは論理的根拠のない意見に組みすることはできません。

*核兵器を抑制する技術が開発されれば「人間自身の問題による滅亡」の問題は解決するのではないか?
 科学技術によるこの宇宙のエネルギーの解明と大規模破壊兵器の開発はパラレルな発展をしてきています。もし核兵器を抑制する技術が開発されれば、その技術は核兵器よりもより大きなエネルギーの使用を意味し、それは直接次世代の大規模破壊兵器の発明に結びついていくはずです。この連鎖が続くならば、いずれ人類は宇宙破壊兵器を開発するでしょう。ここまで極端に論を拡げた方が、かえってここでわたしが展開しようとしている議論がわかりやすいかもしれません。もし人類が「宇宙破壊爆弾」を開発したとしたならば、その使用は全く無意味だと言うことはわかりやすいのではないでしょうか。宇宙破壊爆弾の使用後という状況は全くの虚無ではないでしょうか。わたしはこのような虚無に対処する方法をなんとか考え出したいと思っているのです。
 もう一つ、これは、核兵器の開発から始まった現象ではないのですが、滅亡を考察するうちに明らかになってきた特異な現象があります。
 それは、「災害はその被害者にとっては滅亡になりうる」という現象です。阪神淡路大震災や、地下鉄サリン事件、9月11日のアメリカ同時多発テロ事件など、不特定多数の人間がその理由を知ることなく災害に遭遇して死亡するとき、彼が失われゆく意識のうちで「これは人類の滅亡ではなかろうか」と考えることはあり得ると思います。つまり、打ち消す情報が入手できないと、災害における死を滅亡と誤認することがあるということです(もちろん、訂正情報がもたらされたからとしても死にゆく人にとってどれほどの慰めになるかはわかりませんが)。これも「滅亡は人類の知るすべがない認識の空隙である」と言うことから生じています。滅亡は観測する視座の消失という点で個人の死と結びついているからです。 


 さて、話を少しもどしまして、「素朴存続論」についてもう少し考えてみましょう。「素朴存続論」は根拠がないというのでさきほど斥けられたのでした。
 では、根拠があれば「素朴存続論」は成立するのでしょうか。スローガンではない実行力のある「素朴存続論」の根拠は見つかるのでしょうか。
おそらく、残念ながらこれも不可能だと思われます。
 核兵器もこの宇宙の自然の摂理を読み解くことから生じた技術です。核兵器を全廃したとしても(乱暴な話ですが核物理学の教科書をすべて廃棄したとしても)、世界を破壊する技術を生み出す「原子力という自然の摂理」は失われることはありません。
 裏を返せば、核兵器が理性を持って自然を理解しようとする理性的存在者の歴史に登場するのは宇宙の必然だと言えます。この宇宙に理性を持って活動しだすものたちは、必ず核兵器の技術に気づくはずなのです(それを使用するか否かは別として)。この摂理を失わせることは不可能だといえるでしょう。
 さて、まとめると、次のようになります。
 核兵器の開発によって人類は宇宙規模の無意味を手に入れる方法をえました。しかも、宇宙規模の無意味が生じる不安から解放されることは今後ないでしょう。なぜなら核兵器は宇宙に隠されていたエネルギー法則を解明することから生じてくるものであり、これをなくすことは不可能だからです。


 生きる上で人々はそれぞれに人生に意味を見出して生きています。家庭を営む愛情や芸術を鑑賞することや、おいしいものを食べたり珍しい風景を見に旅行したりすることに意味を見出している人も多いかと思います。
 しかし、これらの意味はわれわれが存在しているという根源的な基盤に根本的に支えられています。たとえていうならば、個々の人間の人生に見出す意味は、水の上に浮かぶ水上客船の群れにあらわすことができるでしょう。そしてその水は大きなダムによって湛えられており、そのたくわえられた水によってそれぞれの個人の意味が成り立ちえているとします。この水が存在を支える意味です。
 しかし、このダムの水が或る穴から流れ出しているとしたらどうでしょう。
 このさい「穴」とはむろん認識の空隙の例えであり、この「穴」をあけたのは核兵器です。認識の空隙から存在の根拠が流れ出していきます。この時おのおのの水上客船は大いに動揺するでしょう。
 つまり、われわれがあるときわれわれ自身を滅ぼしてしまうのではないかとなれば、われわれの存在の基盤が常に不安に揺さぶりをかけられていることになりはしないでしょうか。このような存在の不安を抱えながら存在していくこと、これこそが前世紀から引き継いだわれわれの課題ではないでしょうか。この「存在の不安」とのつきあい方を、これから検討していきたいと思います。
 






(「ウルトラ」10号、二〇〇七年発行に掲載したものを再掲。次号「ウルトラ」14号に第二章掲載予定。)



及川 俊哉(おいかわ しゅんや)
1975年岩手県生まれ。現在は福島県在住。
2005年、12月23日、は東京駅「銀の鈴」前で突如として「ウルトラ」2代目編集長に任命され、現在に至る。
2009年 詩集『ハワイアン弁財天』(思潮社)発表。

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