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ホテル・シーメリラ

今唯ケンタロウ

 外は、雨だ。
 薄暗がりの、ホテルのロビー。
 立てかけてある傘もなく、先ほどから誰もいないし、出て行くとして、どうやって出て行けばいいのかというくらいの、激しい雨だ。外の景色も、雨に煙って何一つ見えやしない。闇のなかには、灯かりの一つも浮かんではいない。
 ホテルの名前はシーメリラ、ということだけはわかる。
 フロントにのみ付いているほのかなライトが、その名前を照らしている。
 先ほどから、数度呼び鈴を鳴らしているのだが、誰も……
 電話も時計も、このホテルにはないようだし、そんなもの僕だっていつから持っていない。
 かすかに、暖房が効いているようではある。けれど、ここはどうにも寒くて。
 僕の体は、濡れてはいない。随分長いこと、闇の一本道を歩いてきた気がするけど、ここへ来るまでに……あの道には、天井でも付いていたろうか。雨の音が聞こえていたかどうか。ぼんやりとした暗い灯かりが、一つ、二つと過ぎていったのではないかと思うが、遥か昔の気もする。
 僕は、彼女が先に泊まっているこのホテルにやって来たのだということもわかる。だけど、誰もいない。誰も。
 このそう広くもない一階フロアのまん中に、円柱があり、その一箇所がくり貫かれた水槽になっており、なかに魚が泳いでいる。50cm四方の小窓程度の水槽だ。こんな狭くてもっと暗い水のなかを、一匹の見たこともない深い青をした魚が、とてもとても静かに、泳いでいる。
 それだけだ。ここにあるのは……。
 奥のエレベータには、十二階までの表示がある。
 僕は二階、三階と上がっていってみるが、明かりのついている階はない。
 歌が、聴こえてくる。
 聴き覚えのある曲。九〇年代にヒットした、アレンジの分厚い16ビートの歌謡曲……女性ボーカルのユニットが歌っていた。曲名まではわからない。そのメロディだけが、ちいさく聴こえてくる。ミディアムテンポの、明るいノリの曲調。
 誰かが、歌っている。歌っている筈なのに、どのドアーの前にいっても、そこから聴こえてくるらしい部屋はない。放送で聴こえているのとも違う。どの部屋からか流れてきている。女の人の声。
 明るい歌だけがどこかで聴こえているのに、こんなに暗くて、しんとして。
 すでに、六階、七階……まだ、上の、階……?
 上ってみると、そのようであると思う。が、同じだ。どの階に行っても、どの部屋も違う。そこだという部屋がないのだ。
 人の気配がない。
 とても、寒くなってくる。
 もう、これ以上、上の階へ行きたくない。思いながらも、足取りは最上の階へ。
 ……彼女は、ドアーを開けてくれるのだろうか。僕はルームキーを持っていない。彼女はまだ、そこに……?
 ここは、今までで最も寒い。
 歌は……聴こえている。いちばん奥の部屋が、いちばんそれらしいように思う。でも……やはり、違う。ノック。ノックに応える声もない。歌は、続いている。何度か曲が変わったが、似たような旋律で続く、歌。歌……僕はこれ以上、ここにいることができない。ここは寒いのだ、とても、寒い。

 ロビーに戻る。
 ここにいるのは、円柱のなかに泳ぐ魚だけだ。
 ここも……あたたかくはない。
 魚の体が、ときどき、きら、と青く黒く光を見せる。魚は泳いでいる。とても静かに。

 外は、相変わらず、雨だけか。出かけられそうな雨じゃないな。と僕は思う。それから少しだけ、来るのが遅かったのかも知れない。

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今唯 ケンタロウ(いまゆい けんたろう)

1980年 9月生まれ。三重在住。
2005年から2008年迄、四日市にある子どもの本専門店メリーゴーランドの童話塾に在籍。
文芸雑誌「ユリイカ」への投稿を経て、2009年、辻井喬氏により【ユリイカの新人】に選出。
その後、クリエイティブRPG『蒼空のフロンティア』にシナリオライターの一人として参加、
一方で、リトルプレス「隔月刊 ミルチァン」を主宰し、地元の書店から東京のタコシェ、模索舎等に展開中。
URL:http://www.geocities.jp/ima_yui/


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