六本木詩人会 六本木詩人会 ホテルアイビス六本木

詩の現場から① 野村喜和夫『詩のガイアをもとめて』と岸田将幸『〈孤絶‐角〉』を中心に

松本秀文

1「アクション」の教え

 「詩をどうやったらうまく書けますか」なんてことは一般的に出る質問ではない。「詩をどうやったら上手に読めますか」も同様である。詩は、一般的な試験には出ないし、生きていく上では必要なものと見なされにくい。このような考えは、以前から繰り返し伝達されてきた。逆に、詩を書いたり読んだりするのが好きな人たちがいる。それは、他の人が恋愛をしたり、スポーツをしたり、映画を見ることと同じように詩を自らの人生の一部として扱っている。その点では、他の人たちと何ら変わらない(はずである)。詩は、特別なものではない。数あるもののひとつである。現代において「どうだ、俺は詩をやっているんだぜ」なんて言っても、世間においては笑われるだけだろう。

 「現代詩は終わった」や「今の若い人の詩は無だ」などジャーナリスティックな言動はすぐに世の中に出回る。それは、流行のようなものだ。人々はそのような言説にあっさりとそそのかされる。だが、そのような言葉をばら撒いている人たちがどういう人間で詩についてどれくらいのことを知っているのかまでは一般的に考えない。その言葉の真偽や評価は後回しにされる。それは、あたかも書評を読んで取り上げられている本の評価をしてしまう行為に似ている。文学において、作品<批評という図式はいつの時代もありうる。本来あるべき姿は両者が互いを刺激し合うものであろう。作品は批評の殻を破り、批評は作品の殻を破るという繰り返しのアクションこそがあらゆる芸術の基盤にあるように思われる。

 さて、現状において、詩の現場の声がおそろしく少ない。もはや、それは人々の耳には届かないものであろうか。詩は、どのように書かれているのか。作品はどのように生まれているのか。テレビや新聞などのメディアがそれを追うことは少ない。「詩の終焉」や「詩の危機」の報道が巨大な波だとすると、詩を持ち上げる報道はその波音にかき消される小川のせせらぎのように思われる。もはや、「詩は売れない」ということは長く詩を書いている者には自明で共通の認識としてある。それは当り前過ぎて、論じられることも少なくなっている。

 野村喜和夫氏は近著『詩のガイアをもとめて』(思潮社)において、「詩は難解でなければならない」「詩を書くということは、したがって今日、ほかの何にもまして反時代的である」と述べている。だが、それだけでは何かが足りない。野村氏は、「テクストからアクションへ」と行動を促す。翻訳や批評、そして朗読パフォーマンスも活発に行っている氏にとって、詩はまさに「行動」なのである。以前、野村氏は踊りながら詩を書いていると語っていたが、その身体性の突端には「テクストからアクションへ」という強い哲学が貫いていたのだろう。今日の詩に必要な思考がこの論集には鏤めてあるが、何よりも「アクション」という言葉に深く考えさせられる。

 詩は難解である。そうして、詩は流通しない。それでも尚、詩の世界をいかに盛り上げていくか、あるいは社会との結節点をどのように作っていくかを考える人たちが存在する。和合亮一氏は、日本においてその先頭を行く詩人であり、この「六本木詩人会」という場所は、まさに詩の現場の声をダイレクトに伝える場所をネット上に作ろうとする「アクション」である。

 昨年、六本木詩人会の年末イベントの中で、和合氏を司会として若手の詩人6名(参加者は、今唯ケンタロウ、及川俊哉、高塚謙太郎、橘上、渡辺めぐみ、筆者=松本秀文)による座談会が行われた。その模様は、「現代詩手帖」(2010年2月号)に掲載されるため、詳細は記さないが、それぞれが「なぜ今自分は詩を書くのか」について真摯に語り合った時間であった。そこでは、先述したような危機感を全員が抱きながらも、どうにか前に進もうと模索する姿が印象に残った。

 もはや、古臭い詩のロマンティシズムは消え去り、誰もが何もかもが無くなった場所=グラウンド・ゼロから出発するしかない。そこには「荒地」さえ存在しない。いや、もう何か「場所」そのものが消えてしまっているようにも思われる。そのような状況で詩を書くとは一体どのようなことか。座談会では、生々しい詩の現場の声に出会うことが出来た。

 座談会では来るべき「10年代」への展望についてそれぞれが語った。確かに、「ゼロ年代」という時代はひとまず終わった。だが、暦の上で「強制終了」されてしまったような印象がある。2000年代の詩の世界において、「新しい詩人」や「ゼロ年代詩人」という大きな流れが生まれたが、むしろ彼ら彼女らの「これから」の方がより重要であろう。北野武の映画『キッズ・リターン』のラストのセリフに当て嵌めると、「バカヤロウ、まだ始まってもねえよ」なのである。そうして、その「これから」には「テクストからアクションへ」というものが重要なのである。その移行を行えるかどうかが、詩の書き手として生き延びられるかどうかに関わってくるように思えてならない。



2「孤絶」の背景

 ここで、2000年代の終わりに刊行された一冊の書物について、論じてみたい。それは、岸田将幸『〈孤絶‐角〉』(思潮社)というちいさな書物である。著者自ら装丁も手がけていることも印象深く、荒々しい戦慄の息吹がその簡素な外装と逆行するように漂っている。同じ時期に、中尾太一『御代の戦示の木の下で』(思潮社)という書物も出たが、岸田氏のものとは大きな差異が見られた。結論から述べると、中尾氏の書物を「詩集」とすれば、岸田氏のそれは「詩集」ではない。では、それは一体何か。

 それは「マニフェスト」であると思われる。あるいは、「決意表明」とも読める。確かに、「詩集」としても読める。だが、書物に偏在する記述の中に「詩を書くとはどういうことか」という心構えや精神論のようなものが見え隠れしている。


(ここにはおまえの深いところにある声を、それが深ければ深
いほど喜んでくれる人たちがいる 詩はためらい切った人の声
だ おまえが深い声を漏らせば漏らすほど喜んでくれる人たち
がいる 詩は広い世界ではないけれどその空は舌が抜けるほど
高い 詩はおまえの時にまったく不可解な使命感も受け入れ、
やがてそのまま受け止めようとする人たちのもの だから詩を
書く人同士は怖しく離れている ここで書いている人は互いに
励まし合わなければならない 詩は慈悲深い絶望だ 極限の人
間関係だ 人世に不足するのは何度でも愛され直される場所だ
そして愛という名の下に自由はない やむにやまれず出産する
宇宙の滲みども――)(扉=5ページ)


詩を失うところに人はいない(17ページ)


本当の声を、本当の音を、たましひの本音を聴くという音楽を、体の生地にこの音の波を、先を行く者との声合わせを……(43ページ)


これまでに呻かれた言葉で人の呻きが正確であったことはないのだから詩を書いている

 さて、①~④までをざっと読んでいくと、岸田氏の詩に対する思いのようなものが伝わってくる。この書物は、出るべくして刊行されたもののように思われる。それはどういうことか。先ほど述べた「ゼロ年代」や「新しい詩人」という「外殻」を突き破り、まさに裸の状態で「詩の書き手」としての自分を世界にさらけ出すという「決意」がここには見られる。この書物には、この時代に詩を書くことの意味を必死で見出そうとする人間の姿を正確に描写しようとしている。詩の現場の声が書物全体に満ちている。これは、誰かが言わなければならなかったことのように思われる。最初から最後まで緊張感を持続させる書記行為は、現在書かれる詩の中でも最先端に位置するものであろう。

 ここで、私は不意に稲川方人氏の『封印』(1985)を思い出してしまう。「詩トハ、ヤハリソレ自体デ、スデニ閉ザサレテアル存在ヲ精神化スルシカナイ形式ノコトデス。」から始まる詩の書記行為に関わる断片(そしてそれ自身が詩であるような断片)。それは作品でありながら、批評でもある境界を揺れ続ける書物でもあった。「大量生産大量消費」の時代にこのような書物が出現したことを忘れてはならないだろう。そして、また岸田氏の書物がこの時代に出現したことを考える必要がある。

 作品誕生の背景のひとつとして、本来批評と作品とのありうべき関係がこわれたために、このような作品が出現したように考えられる。批評の「箱」の中に作品がすっぽり収納されている状況があるように思われる。先述した「詩の現場の声」が響かなくなっているのではないだろうか。そうして、そのような状況は、詩の現場以外の声が強い場合と現場の声が弱い場合とが考えられる。前者は、吉本隆明氏の「今の若い人の詩は無だ」に象徴されるだろう。その声によって一括りにされた若い人たちの作品は、決して一括り出来ないものであった。

 それに対して、後者は詩を書く人間全体の問題でもあろう。詩の業界において、詩を論じるのは主に詩の書き手である。確かに、批評行為は自らの書き手としての意識を消して、出来るだけ詩の外側に身を置いて論じる方が妥当のように思われる。しかし、そこで失われるものもあるだろう。その失われるものを逆に最大限に引き出すこと。岸田氏はそれを試みたのではないだろうか。それは、勝算のない孤独な戦いでもあるだろう。同じ詩の書き手として敬意を表するものの、それに対する疑いもある。それが、先述したこの書物の特性である。

 ①~④に秘められたものは、「私はこのように詩を書いています」という現場の声であると同時に「詩とは本来このようなものである」とする原理主義的な宣言であると読まされてしまう(それは私に限ったことかもしれないが)。そうなると、何かしら閉じていくような不安が生まれる。詩が詩の中で語られること。それはかたちを変えて、古代から何度も繰り返し行われてきた。今さら、「詩はすごいんです」と言われてもほとんどの人は耳を貸さないだろう。世間に溢れる情報の「表層」と対峙するために詩の「深層」を求めているようだが、詩が既に「表層」だとしたら、どうだろう。それは、詩を信頼し過ぎていると指摘されるかもしれない。詩が流通しない時代に必死で詩を書き続けることには反時代的な特権意識が含まれることもあるだろう。だが、反時代的であることも今ではひとつの「ファッション」に属するほど、時代はフラット化している。そのような時代に対して、そのまま流されるか。必死で抗うか。それは人間の生き方に関わるものであるだろう。

 「どうしても書かなければならないこと」「どうしても言いたいこと」が、岸田氏にとってたまたま詩の形式をとったと言い換えることも可能かもしれない。「表現したいことを表現すること」を後押しするネット環境の整備と「一億総表現社会」の中で、詩という形式を偶然つかむ者も多くいるだろう。だが、その偶然を必然に変える力が、詩の言葉の強度に圧倒的な差異を明らかにする。岸田氏は、ネットに溢れる星の数ほどある言葉たちに牙をむき出しにして、「どうだ、これが詩の言葉だ」と叫んでいるようにも見える。それが過剰になり過ぎると、詩が「神聖」なものとして「聖域」に収まってしまう危険性もある。それに対しては注意が必要である。

 偶然を必然に変える志は、表現を行う上で最も重要な「ライセンス」のようにも思われる。中尾氏は『数式に物語を代入しながら何も言わなくなったFに、掲げる詩集』(思潮社)の「あとがき」で「「どうしても伝えたい」、という幼い覚醒が小さく、はっきりと聞こえ始めている。この声に向かう全身こそ自分たちが忘れてはならない「絶対抒情主体」だと思う。」と述べている。詩の現場の声がここにはある。それと共にその声はすぐに消えてしまう事実もそこにある。そのようなものを持続させ、強固にしていった先に出現したものが『〈孤絶-角〉』だとしたら、やはりそれは通常の「詩集」という枠をこえて、「マニフェスト」のようなメッセージ性の強いものとして読まれるだろう。

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松本 秀文(まつもと ひでふみ)
1979年 12月20日生まれ。いて座。A型。福岡在住。
既刊詩集に『鶴町』、『白紙の街の歌』(ともに思潮社)などがある。
詩の朗読でも地味に活躍中。詩誌「ウルトラ」同人。
ブログ「sokudotaroの日記」時々更新中。http://d.hatena.ne.jp/sokudotaro/

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