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三島由紀夫『美しい星』-物語類型における『聖書』との関連について

及川俊哉

一、あらすじと問題点

三島由紀夫の小説『美しい星』(1)は不可解な作品である。まず、人物設定が尋常でない。飯能に住む大杉重一郎が主人公であるが、彼は自分を火星から来た宇宙人だと思っているのである。その家族も同様の自覚を持っている。彼らがそれぞれに円盤を目撃したからである。ただし、家族が自らの出自とする星は各人各様である(妻伊余子は木星、長男一雄は水星、長女暁子は金星)。彼らは水爆戦争による破滅から人類を救済しようという目的で一致している。しかし、家族で同時に円盤を見たことはなく、自らの宇宙人自覚の証しを得たことはない(第一章)。

重一郎は人類救済の理念を人類に広めようとし、「宇宙友朋会」を設立して活動し出す。金沢の竹宮という男がその広告に着目し、暁子と文通を始める。暁子は竹宮の招きで金沢へ行き、そこで彼と円盤を目撃する(第二~三章)。

一方仙台には人類の滅亡を宿願とする一派がいる。大学助教授羽黒と銀行員栗田、床屋の曽根である。彼らは、やはりある日同時に円盤を目撃し、自分たちが白鳥座六十一番星付近の未知の星から やって来た宇宙人だと確信する。「宇宙友朋会」の活動を知った彼らは重一郎に対して敵愾心を燃やし、その阻止をもくろむ(第五 章)。

そのころ暁子の妊娠が判明する。しかし、彼女は処女懐胎を主張する。重一郎はひそかに金沢へ行き、竹宮の所在を探るが、彼は行方不明で、さらに名うての女たらしだったことがわかる。重一郎はこれを暁子には秘密にすることにする(第六章)。

羽黒はふとしたことから政治家黒木と懇意になり、黒木の政治運動に参加していた一雄のつてで埼玉の大杉家へやって来る。羽黒は人間の滅亡の原因として人間自身の持つ三つの宿痾、「事物への関心ゾルゲ」「人間への関心ゾルゲ」「神への関心ゾルゲ」を語る(第七~八章)。

重一郎はしかし、これを全面的に肯定してしまうのである。ただし、人間にも救うべき点はあるとして「五つの美点」を挙げる。それにもかかわらず結局は羽黒の理論に抗し得ず、破れる。この展開も奇怪である。彼はその後倒れ込むが、これは胃癌によるものだった。病床の父に対して暁子は竹宮の真実を尋ねる。重一郎は竹宮が人間だったことを告げる。しかし、暁子は処女懐胎の信念を曲げない。暁子は重一郎に癌を宣告する。重一郎は恐怖を感じ、衰弱するが、夜の病室で人間的生を実感する。犠牲の精神が目覚める。明け方、宇宙の最高意志の声を聞く。家族と病院を抜け出し、神奈川県郊外で着陸した円盤を見る(第九~十章)。この結末もおかしい。本作品があまり有名でないのも無理のないことである。

この作品を取りつきにくくさせている問題点は次の四つにまとめられると思う。
一 素材の奇抜さ(円盤・宇宙人)
二 構成の複雑さ(宇宙人の確証の二転三転)
三 論争部の難解さ(人類は水爆戦争によって滅びるか否か)
四 結末の不条理さ

これまでの評価をざっと見てみると、宇宙人を現代批判と見る肯定意見(2)、結末を「機械仕掛けの神デウス・エクス・マキーナー」と見る否定意見(3)など同時代評が賛否両論に別れているほか、それまでの小説界の傾向に反してはじめて文学の中で政治を扱った小説であるという「政治と文学論争(4)」の引き金になっている。また、吉本隆明(5)が円盤幻視に至るまでの重一郎の心理過程の描写を高く評価している。一九八0年代からは研究論文が出始める。栗栖真人(6)は現実に対する幻想の敗北をテーマとする。大久保典夫(7)は「宇宙人」という人物造形に日常性 の否定と超越への希求を見、『トニオ・クレーゲル』的芸術家と市民の二律背反を主題とする。矢吹省二(8)は心理学者としての立場から幻想に依存し現実を放棄した人間の悲劇を見る。有元伸子(9)は作 中人物竹宮の「存在の二重透視論」に着目するほか、結末には「認識の劇」を信じたかった三島の願いがあるものとする。川島秀一(10)はすべての登場人物の思想を相対化する語り手の視点に「虚無そのものを自己の生の原理」とする意志を見る。

作品発表当時の時代(一九六二年)は、ちょうど東西両大国のにらみ合いのつづく冷戦期であり、核拡大競争の中で度重なる核実験の「死の灰」の恐怖や(第五福竜丸事件は一九五四年)「偶発戦 争」が懸念されていた時期である(キューバ危機は一九六二年十 月)。作中の登場人物がたびたび漏らす人類の破滅の不安が実際に危険性を持った時代であったといえよう。『美しい星』にはこのような水爆戦争による人類滅亡への危機感が反映されているといえるだろう。

さて、問題点への考察であるが、筆者の現時点での立場を述べれば、結末部分は小説として<破綻>していることは認めなければならないと思っている。ただし、既成の小説観にはあてはまらない文学としての並々ならぬ力を感じることは否めない。三島自身はドナルド・キーン宛ての書簡(11)の中で本作品について次のように述べている。

「美しい星」は、キーンさんが好かれないことはよく知つてゐま すが、もし翻訳して下さる可能性があれば、どんなに嬉しいかと 思ひます。僕自身はあの小説が大へん好きなのです。

三島自身は『美しい星』を成功作としていたことがわかる。明らかに破綻している本作品を翻訳して世界に広めようとまでしていた三島の自信は、やはり破綻を失敗と取らない読み方をしなければわからないだろう。

この結末部分は本作品の最大の問題であると思われるが、『美しい星』には、作品の評価以前に検討しなければならない問題が多いため、残念ながら今回の論文ではふれられない。ただし、附記にある程度の読みは示した。本作品を正しく理解するためには、まず先に挙げた問題点の一、宇宙人・円盤という素材から離れてみる必要があると思われる。




二、作品と聖書の関連

三島が学童期に書いた詩に「第五の喇叭-黙示録 第九章」(12)というものがある。この詩には『美しい星』に関連する部分が多い。これを確かめ、この詩との関連から読み取れるものを考察してみたい。

この詩は、昭和十四年に三島の在学していた学習院内の文芸誌 『輔仁会雑誌』に掲載されたものである。このときは五篇の詩が掲載され(「森たち」「第五の喇叭」「独白」「星座」「九官鳥」)、全体としては「九官鳥」と題されていたようである。

第五の喇叭 -黙示録 第九章

わたしは見た。
一つの星が地に隕ちるのを。(ア)
彼は『底のない坑の鍵』を與へられたから、
若い女神のやうに地に隕ちた。(ア)

わたしはその瞳を見た。
それは恐れと災ひを示すやうな、
まつさをくきらめくかゞやきだつた。
……それは暗い、天地の眠りであつたらうか。
穴のあいた盲ひの目であつたらうか。

わたしは見た。
坑が不思議な煙をはくのを。
死人の黒い帷子かたびらで煙は身を包んでゐた。
わたしは煙のなかを見た。
果てしない夜、希望のない暗闇。
……それは世界の寒い挽歌だつたらうか。
火のない國でうたつてゐる、
寒い挽歌だつたらうか。

わたしは見た。
煙の生んだ一疋のいなごを。
蠍の力を與へられた苦痛くるしみの訪れだ。
わたしはその頭を見た。
戴かれた金の冠は風信子ヒヤシンス石が鏤められる。
彼の名はアバドンと云ふ。
その額にさう印された。

ああ、果てしない闇がひろがり
銀色の波につゝまれて、
寶瓶宮の下の死の海の魚たちは、(イ)
朝の訪れを待つてゐる。

わたしは草床のなかゝら(ウ)
露にぬれて、身を起すのだが、(ウ)
うすら寒い、雨のあしたに、
灰色にをのゝいてゐる。

あゝ、今日も日はさゝない。
煙のなかに生まれた蝗は、
とんで行く、
飛躍んでゆく。         (傍線、文字記号は筆者)

「第五の喇叭」は新約聖書「ヨハネの黙示録」(13)を踏ま え、終末観に彩られた作品になっている。
昭和十四年の状況をざっと見てみよう。日本国内では軍部の政治介入、思想言論統制の激化、国家総動員報の発令(昭和十三年)、インフレと価格統制(「ぜいたくは敵だ」というスローガンが叫ばれたのが昭和十四年である)などが一般市民の生活を逼迫させていた。対外的にも昭和十二年の日中戦争が泥沼化しており、また欧米列強との対立が深刻化していた時期であった。作品成立が三月であるが、五月にはノモンハン事件が起き、ソ連との交戦状態に入る。十月にはドイツのポーランド侵攻が起き、ヨーロッパは第二次世界大戦に突入した。昭和十六年の真珠湾奇襲をひかえ、いわゆる「十五年戦争(昭和六年の満州事変から昭和二十年の敗戦まで)」の 真っただ中である。(14)

このような不安定な時代状況が詩に反映したと考えることができるのではないだろうか。むろんテクストと時代背景を直接結び付けることには危険が伴うが、当時の状況への危機感が未来へのなんらかの不安(「希望のない暗闇」「灰色にをののいてゐる」「今日も日はさゝない」等)を呼んで、十四歳の三島にこの詩を書かせたと考えることもできるだろう。
さて、『美しい星』と関連する部分には傍線をひいておいた。 『美しい星』本文と比べてみよう。説明の都合上(イ)(ウ)を先にする。

・(イ)-5連27行  「寶瓶宮の下の死の海の魚たちは、」
『美しい星』本文(P52 第二章 大杉家の兄妹が仲直りをする場面)
「南にむかつた窓は壮麗な星空を展いてゐた。オリオンはまだ見えず、蠍座は既に西に沈み、射手座もその跡を追はうとしてゐた。これに隣る山羊座は頭と尾だけをあらはし、中央には水甕座が、三等星アルファーの美童の頭と、左に四個の四等星で水甕の形を描いてゐた。その口から星星の水は南へ滴り落ち、魚座は滴りを受けてこれを飲んでゐた。
水瓶座と魚座を上下関係でとらえるレトリックが共通している。

・(ウ)-6連29~30行
「わたしは草床のなかゝら、/露にぬれて、身を起こすのだが、」
『美しい星』本文(P23 第一章 重一郎が円盤を見る場面)
夏草のなかに踏み入つたとき重一郎は足の甲が露に濡れるのを感じ、耳はおびただしい虫の声に占められてゐるのを感じた。 (略)
重一郎は感動して、夏草のあひだに坐つてしまつた。しきりに涙 がこぼれ、今のつかのまの円盤の出現が、自分のもつとも深い記 憶の底に触れて、そこから何ものかを触発して行つたように感じ た。(略)
彼は夏草の露に寝間着をしとどに濡らして坐つたまま、自分の記 憶の底深く下りてゆかうと努めた。
草露に濡れながら非日常的な世界をかいま見る人物、またその場面において共通している。

・(ア)-1連2~3行
「一つの星が地に隕ちるのを。」「若い女神」
聖書では星を天使と考える(15) 。したがって落ちてきた星は堕天使であり、悪魔の一族に変わってしまうのである。
落下する星は聖書ではしばしば「明けの明星」になぞらえられる。そのそもそもの出典は旧約聖書中の「イザヤ書」である。
あしたの子明星よ、いかにして天より隕ちしや(16)  (イザヤ書 14 :12)
ここで天から落ちるものと表現された星(金星)=ルシファー(17)が、新約聖書「ルカ伝」の記述によって悪魔の別称となった。
わたしは、サタンがいなずまのように天から落ちるのを見ていた。(18)         (「ルカ伝」10:18)

つまり、ヘブライズムでは星は天使であり、落ちる星は堕天使 (悪魔)である。さらに金星はあけの明星として見られた時ルシ ファーと呼ばれていた。ところが「イザヤ
書」に明けの明星の墜落が、また「ルカ伝」にサタンの堕天が書かれていたために、夜明けの金星は堕天使であるという伝承が聖書文化・キリスト教的文脈のなかで成立したのである。例えばミルトンの『失楽園』の中には次のような記述がある。

だから、わたしはおまえに話しておきたい-思えば、あれは天か ら/ルーシファが(そうだ、それが、星の中の星ともいうべきあ の/暁の明星以上に、かつては天使の群れの中でも最も輝ける天 使で/あった彼の名だ)(19)
したがって、「第五の喇叭」中の「星」「女神」は<堕天使>の表現として考えられる。これを『美しい星』とくらべて考えてみるとどうか。大杉家の長女である暁子は<金星>を出自の星とし、また<暁>という名前も持っている。ここに象徴されているものは、やはりキリスト教的文脈のなかにおける<堕天使>の要素なのではないだろうか。

純潔を理想として金星の属性を帯び、地球人を美によって救済しようと考えていたはずの暁子は、金沢の竹宮にたぶらかされ、妊娠してしまう。ここで既に純潔という理想を破られた<堕天使>の要素が入ってくるのであるが、さらに自分は<処女懐胎>であるという自己合理化のなかに落ち込み、ついには父親であり人類救済を志している重一郎に癌であることを告げてしまう。ここに至って暁子は救済に対する妨害者になってしまっているのだ。
そのほかにも『美しい星』には聖書と符合する部分が多い。登場人物の多くは聖書中の人物と重なるものとして造形されている。

・「材木商」の息子である主人公重一郎は「大工ヨセフ」の息子キリストに重なる。
<作品本文 第一章 P9>
飯能一の材木商で、大きな財産を残した先代のやうな
「聖書」(20)P47 「マタイ伝 13:55」
この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤ コボス、シモン、ユダスではないか。

・円盤によって「処女懐胎」をする暁子は「聖霊」によって妊娠する聖母マリアの役割も負っている。堕天使と聖母の結合は諧謔的である。
<作品本文第四章及び第六章参照>
「聖書」P2 「マタイ伝 1:18」

さて、イエスス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母 マリアはヨセフと婚約していたが、二人がいっしょになる前に、聖霊(神の霊)によって身ごもっていることがわかった。
・選挙地盤の代わりに父が宇宙人であるという秘密を黒木に告げてしまう一雄は銀貨や土地でキリストを祭司長に売り渡す裏切りのユダに重なる。
<作品本文 第八章 P210>

父の秘密を一層重大なものに見せかけ、できるだけ高くそいつを売りつけ、さうして今こそ、花々しく父を裏切るのだ。(略)
いくら親不孝の僕でも、父の重大な秘密を、(そりやあ世間の恥 でもありますし)、率直に申し上げるには勇気が要ります。で、 黒木先生が、二つのことを約束して下さつたら、言つてもいいで す。一つは直ちに、僕を先生の正式の秘書にして下さること、も う一つは将来僕が選挙に立つときに、先生の地盤を譲つて下さることです。それと引きかへになら、お話してもいいです
「聖書」P88 「マタイ伝26:14-15」

そのとき、”十二人”の一人で、イスカリオトのユダスという者 が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡 せば、いくらくれますか」と尋ねた。すると、彼らは銀貨三十枚 を支払うことにした。
「聖書」P357「使徒行伝1:18」

ところで、このユダスは裏切りでもうけた金で土地を買ったので すが、その地面に真っ逆様に落ちて、体がまん中から裂け、はら わたがみな出てしまいました。
・重一郎が癌であることを知らないのに、家族の秘密に参加させられなかったという虚栄心から「知っていたんです」と言って泣き じゃくる妻伊余子は、とらえられたキリストを知っているかと訪ねられて「知らない」と答え、泣くペテロの役割を逆転して背負わされている。共に嘘をついて受難の救世主に追い討ちをかけるという点で効果が共通している。

<作品本文 第十章 P285-286>
このとき重一郎には、最後に伊余子の否定を恃む心が動いてゐなかつた、と云ふわけには行かない。もし伊余子が否定すれば、ただちに彼が、そのお為ごかしを責めることは明らかだつたが、そのとき彼が責め抜けば責め抜くほど彼の糺問が常軌を逸すれば逸するほど、なほ譲らない伊余子の否定に一縷の望みをかける気持ちが、動いてゐなかつたと云ふわけには行かない。(中略)
伊余子はベッドの端に崩折れて、泣きじゃくりながらかう言つた。
ごめんなさい、……知つてゐたんです……知つてゐたんです……どうしても言へなかつたの
重一郎の目はこれをきいたときに、空井のやうにうつろになつ た。
「聖書」P93 「マタイ伝 26:69-75」

ペトロスは外で中庭に座っていた。すると、一人の女中が近寄っ て来て、「お前さんもガリラヤのイエススといっしょでしたね」と言った。ペトロスは皆の前でそれを打ち消して、「なんのことを言っているのか、わたしにはわからない」と答えた。ペトロス が門の方に行くと、他の女中が彼に目を留め、そこにいる人々に、「この人はナザレトのイエススといっしょだった」 と言っ た。そこで、ペトロスはあらためて、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。しばらくして、そこにいた人々が近寄って来て言った。「確かにお前もあの連中の仲間だ。言葉づかいでそれがわかる」。そのとき、ペトロスはのろいの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロスは「鶏が鳴く前に、お前は三度わたしを知らないと言うだろう」と言ったイエススの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。     (引用部の傍線はすべて筆者)

このほかにも羽黒は悪魔の役割(荒野の誘惑 ルカ伝第四章)を負わされていると考えられる。この点は後で少々ふれるが、問題点三に大きくかかわってくるので、本論文では詳しくは取り上げな い。

聖書をAとし、「第五の喇叭」をBとし、『美しい星』をCとした場合、A≒B、B≒C、したがってA≒C、という三段論法が成り立つ。『美しい星』が聖書の影響のもとに書かれた小説であることは疑いがないだろう。試みにこの小説を三行に要約してみよう。

1. 主人公が自分を人間ではないと思う
2. 主人公は人類を救済しようとするが妨害される
3. 主人公は人間の世界から去る

これはそのまま聖書中のキリストの一生に重なる。本作品は聖書の受容のもとに水爆戦争の恐怖を時代背景にした終末観を描いた黙示文学的小説であり、危機的状況下にある現代において書かれた、変容された<救世主譚>であるといえるのではないだろうか。「第五の喇叭」が不安定な時代状況を背景にして「黙示録」の受容から成立していたことと並べて考えてみれば、この点は明らかであると思われる。
したがって<救世主譚>として考えるなら、『美しい星』では次の点が問題になってくる。

・大杉重一郎は救世主か僭称者か
これは主に暁子を中心にして繰り広げられる。兄妹間および竹宮における本物贋物論争、また最終部での重一郎との真偽論争がこれにあたる。
この点が問題点二に深くかかわってくる。つまり「宇宙人」という素材は聖書においてキリストが神の子なのかどうかが問われたことと並行する問題を導くための設定なのだ。この最終的な結論はやはり問題点四にかかわってくる。

・人類は救済されるか滅亡するか
これは羽黒一派との関連で展開される。問題点三にかかわる。
そしてこの問題も結末の読みと密接にかかわってくる。
学童期の三島が聖書を題材にして書いた作品にはこの他に小説 「暁鐘聖歌(21)」(昭和十三年)、戯曲「東の博士たち(22)」(昭和十四年)がある。
「暁鐘聖歌」は「ルカ伝 第四章 荒野の誘惑」をなんらのイロニーもなくリライトした習作であるが(巻頭言にルカ伝第四章が英文で引用されている)、悪魔が三つの試しをキリストに与えると き、<巫女><貴人><神官>にそれぞれ姿を変えるという技巧を施している。悪魔が女性の姿をかりて現れるという技巧は「第五の喇叭」を
通じて「美しい星」の暁子に受け継がれている。また、冒頭部の悪魔の形容は羽黒の人物造形に継承されている。

・「暁鐘聖歌」本文P9
彼は黒い衣服を好み、尖つた爪を愛し、 常に暗やみに身を浸し て、不気味な形態をした耳と尾を闇の中に紛らせる可く図つた。<作品本文 第五章 P133>
それから書斎の一隅の古い安楽椅子へ、爪切りを手にして坐り、女たらしのやうに、手の爪を丁寧に切つて丁寧に鑢をかけた。
ともに爪への偏愛が見られる。また、聖書中の悪魔の三つの誘惑と羽黒の「三つの関心ゾルゲ」は重なると思われる。羽黒は救世主を妨害する悪魔として造形されていると見てよいだろう。
「東の博士たち」はキリスト誕生時に東方三博士の訪問を受けたユダヤ王ヘロデを主人公とした戯曲である。私見の限りでは「美しい星」との重要な関連は見受けられなかったが、救世主の生まれた土地をしめすいわゆる「ベツレヘムの星」が博士たちに先立って動くという記述は、むろん聖書の影響下にあるものながら(「マタイ伝 2:9」)円盤の造形に影響を与えているものともとれよう か。これはさして重要ではないと思われるが、一応指摘しておく。
以上で「聖書」-「三島初期作品」-「美しい星」という影響関係が筆者の憶測ではないことが立証されるだろう。




三、三島と聖書のかかわり

『三島由紀夫事典(23)』「聖書」の項には「三島にとって『聖書』はさほど大きな意味を持たなかった」とされている。しかしわれわれがここまで見てきた内容を振り返れば、けしてそうではないことがわかるだろう。参考までに言えば、三島由紀夫の蔵書目録(24)にはいくつかの聖書関連書が記載されている。

三島作品の中には、これまでに挙げた作品以外にも聖書と関連するものが多いのである。以下にいくつか挙げてみる。
「花ざかりの森」(初出S16)「その二」における夫人の日記にもキリスト教の影響が見られる。キリシタンの夫人は光の中に聖母を見るという体験をし、それを「超自然のよろこび」と感じるのである。「岬にての物語」(初出S21)には「旧約雅歌」から、「愛の渇き」(初出S25)には「黙示録」からの引用が序言に記されている。「夏子の冒険」(初出S26)は軽めの娯楽小説であるが、主人公夏子の修道院入りが重要なモチーフになっている。「海と夕焼 け」(初出S30)では日本に流れ着いた少年十字軍の生き残りが主人公である。また、三島は昭和三十五年には「サロメ」の演出を 行っている。もちろん「仮面の告白」(初出S24)中で主人公の羨望の対象となる「聖セバスチャンの殉教」もキリスト教と三島との関係を理解する上で重要である。これほど素材がありながら、三島におけるキリスト教受容の本格的な考察はほとんどない。「キリスト教嫌悪」を折にふれ表明してきた三島の生前の発言を尊奉するためであろうか。

しかし「仮面の告白」を書いた作者であることを踏まえるなら ば、つまりその<最も表面的な事がらが最も本質的なことを語るのだ>というテーマを理解できていれば、三島とキリスト教の関係を見過ごしにすることはなかったはずである。これは『美しい星』についても当てはまる。多くの評者は「宇宙人・円盤」が出てきた時点ですぐにこの小説を低次元のものと決めつけてしまったのではないか。そのために本作品とキリスト教との関連を見いだすことができなかったのではないか。こんな皮相的な理解をうんだ偏見には深い憤りを感じざるを得ない。その点、富岡幸一郎(25)は三島の思想に「キリスト教的な(ただし世俗化した近代キリスト教や自然神学ではなく、イエス・キリストの再臨を「待ちつつ急ぎつつ」という、きわめてプラクティカルな実践として受けとめたブルームハルトのような神学に近い)要素」をがあることを指摘している。卓見であろう。急いでつけ加えておくが、筆者はこの論を根拠にして作品結末部の円盤を「キリストの再臨」だなどと言わんとしているのではない(附記参照)。いずれにしろ『美しい星』で三島が目指したものは自身のキリスト教受容の集大成だったのではないだろうか。




四、まとめ

本書における物語要素の研究としては既に「竹取物語」におけるかぐや姫と暁子の関連が指摘されているが(26)、筆者の見解では「竹取」の要素を負わされているのは金沢の男「竹宮」であると思われる。性別の変容はあるが、名前に込められたシンボル<竹>の一致(このような判じ物めいたシンボルは他にもある。たとえば重一郎の妻伊余子の名には木星最大の衛星「イオ」が隠されている)や天上の世界からやって来て、異性と交流し地上の世界から消えるという点を考慮してみても「竹取」から「竹宮」が造形されたと考えてよいだろう。念のため字解きをしておけば、「竹取物語のかぐや姫のように地球外の星の都(宮古)(27)から来た男」とでもなろうか。いずれにしろこれは物語要素としての符合であり、物語類型として考えるならば聖書との関連を重く見た方が良い。なお、竹宮にも 「暁の明星」と関る表現が出てくる。
それならその笛の音は、暁の明星の光りにちがひない。
(本文P74)

竹宮もまた<堕天使>の一人として造形されているのだといえよ う。
さて、比較文学の常道として、関連を証明しただけでは何の意味もなく、その作品における意義を見いださねばならぬという規制がある。しかし、今回この点には立ち入ることができない。これは先に上げた四つの問題点が作品の読解を困難にしており、その一つ一つがやっかいな論証を経なければ説明できないものだからである (いちおう大略は簡単に附記に記した)。
本論文の意図はこれまでなおざりにされてきた『美しい星』という作品を復権し、研究者諸氏の論議を喚起するところにあった。
筆者の聖書と『美しい星』の関連の証明によって研究者諸氏の本作品に対する認識が変化し、『美しい星』研究が発展してくれることを切に願う。




五、附記

問題点二、四に関して簡単に述べる。最後の円盤が「機械仕掛けの神」として現れると、重一郎らの宇宙人自覚が保証されるために構成上すべての登場人物の人間的心理や葛藤がムダなものになってしまうのである。したがって本作品の破綻は認めざるを得ない。しかし、同時に重一郎の救済論も保証されるのである。ここに本作品破綻の秘密を解く鍵があるのではないかと筆者は考えている。

『美しい星』とはまったく関係のない場でだが、三島は次のように述べている。
作者と読者の間にあるものは馴れ合ひに過ぎぬ。小説という芸術は、小説を芸術として成り立たしめる最大の要素であるこの馴れ合ひをぶちこはしても、真らしさへ更に一歩突き進まうといふ、危険な野心を抱いてゐるものなのだ。(28)(傍線筆者)
『美しい星』の破綻を説明するための興味深い示唆になるといえよう。今後は『美しい星』が突き進んでいった「真らしさ」をつきとめることが課題になるだろう(筆者はメタ小説の観点が必要だと思っている)。

問題点三および聖書との関連についても少しふれよう。聖書を諧謔的に変容させて小説の中に折り込んだのはキリスト教文化≒近代主義に対する批判を込めてのことであろう。しかし「救済論」を残した点でキリスト教思想のすべてを否定したとは言えない面があ る。この点評価が付け難い。
感想文めくが、筆者は三島が最終部の円盤で<神の到来と神の死が同時に訪れるような瞬間>を描き出したのではないかと考えている。<全否定のさらなる否定>の契機として本作品の破綻があったのではないか。この観点から小説全体を見ると<相対主義を相対主義のまま救済する方法>を書いたのが本書ではないかと思える (『小説家の休暇』「八月四日」の項・最終段落参照のこと(29))。

救済論において特徴的なのがその「時間論」である。これとまったく同じ理論を三島は『太陽と鉄』の中で繰り返している。この点で筆者は三島思想の根幹に独特の「時間論」があったのではないかと考えている。むろん「時間論」からすぐに連想されるのは輪廻転生の小説『豊饒の海』である。『美しい星』『太陽と鉄』『豊饒の海』のタイトルの中に隠されたシンボルが「地球」「太陽」「月」であるのも象徴的な作為を匂わせる。三島はこれらの作品によっ て、その思想宇宙の三位一体を形成しようとしたのではないか?むろんこんな巨大なテーマの論証は、筆者の手にあまる課題である。研究者諸氏のご助力を請いたい。

『美しい星』はこれまでまったく看過されてきたといっていい奇書である。しかし、筆者は四つの課題がすべて解明されたとき、この作品が三島思想を解読するための<聖書バイブル>になるであろうことを確信している。





[参考文献]
(1)『美しい星』(『三島由紀夫全集 第十四巻』)<初出> 「新潮」昭和三十七年一月号~十一月号(筆者は一月号以外未見)この論文では全集版を分析対象として扱う。表記はあたうかぎり全集本文に従い、旧かなを使うが、ワープロでの論文作成の都合上漢字は新字体を用いる。
(2)1962江藤淳『朝日新聞』「文芸時評」11月3日
(3)1963書評子『群像』1月号
(4)1963奥野健男「『政治と文学』理論の破産」『文芸』 6月号
(5)1987吉本隆明『夏を越した映画』潮出版社所収「宇宙 フィクションについて」<初出>1978「映画芸術」8・10月号
(6)1984栗栖真人「虚無への誘い」『別府大学国語国文学』12月26号
(7)1989大久保典夫「『美しい星』論ノオト」『幻想文学・伝統と近代』村松定考編 双文社
(8)1989矢吹省二「ある悲劇の分析-三島由紀夫『美しい 星』考-」『国学院大学紀要』3月27号
(9)1991有元伸子『金城学院大学論集(国文学編)』「三島由紀夫『美しい星』論-二重透視の美学-」3月33号
(10)1993川島秀一「『美しい星』-SFの遠近法」『国文 学』5月号 学灯社
(11)1998『三島由紀夫未発表書簡 ドナルドキーン氏宛の97通』(「一九六四年五月二十七日」のもの)中央公論社
(12)「全集 三十五巻」P413 <初出>1939「輔仁会雑誌」3月(この部分のみ、詩作品という形態を考慮し、旧字体のまま引用した。)
(13)「ヨハンネスへの黙示」1981『新約聖書 共同訳・全 注』講談社学術文庫 P835
「第五の喇叭」に関連する部分のみを抜き出す。聖書本文でのル ビ、注釈は省略した(以下、この聖書からの引用はこの方法で行 う)。頭数字は聖書本文での節数である。丸カッコの中に詩の関連部分を記述する。また、ここで参考にした聖書では「ヨハンネス」という表記であるが、通例を考慮し、本論文本文では「ヨハネ」と表記した。
1「第九章 第五の天使がラッパを吹いた。」(タイトル)
1「すると、わたしは一つの星が天から地上へ落ちてくるのを見 た。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられた。」 (一連)
2「この星が底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち昇り、太陽も空もこの穴の煙のために暗くなっ た。」(三連)
3「この煙の中から、いなごの群れが地上へ出てきた。このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。」(四連)
5「いなごが与える苦痛は、さそりが人を刺したときの苦痛のようであった。」(四連)
7「頭には金の冠に似たものを着け、」(二十二行目)
11「いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている。その名は、ヘブライ語でアバドンといい、」(四連)
(14)1971『日本の歴史 25 太平洋戦争』中央公論社および1991『新 詳説 日本史』山川出版社による。
(15)1981『新約聖書 共同訳・全注』講談社学術文庫 注 3 P837
「ユダヤ伝承によれば、星の動きは天使に司どられるもの、あるいはまた、星そのものが天使とみなされていた。ここで、『天から地上へ落ちる』天使は、悪天使、つまり『サタン』の仲間を指すものであろう。」
(16)1982『旧新約聖書 引照附』日本聖書協会  P1190(ルビは省略した)
(17)1989『旧約新約聖書大事典』教文館P40
「あけのみょうじょう 明けの明星 Morgenstern(中略)明け方 の明るさをもたらすものと考えられていた金星、ないしそれに類した星。旧約聖書では、バビロニアの王が天から落ちた明けの明星として、嘲笑的に語られる(イザ14:12→サタン)。」
1988『聖書象徴辞典』人文書院P3 注1
「Lucifer。ラテン語で「光をもたらす者」。「明けの明星」を意味する。のち、ルカ(10:18)との関連で、サタン(悪魔)の別名となる。また、堕天使をも意味するようになる。」
(18)1981『新約聖書 共同訳・全注』講談社学術文庫 P213(本書では「ルカスによる福音」であるが、通例により 「ルカ伝」と表記した)
(19)1981『失楽園(下)』ミルトン著・平井正穂訳 岩波文庫 P15
(20)ここより以下「聖書」の表記による引用は『新約聖書 共同訳・全注』からのものである
(21)「全集 一巻」P49 <初出>「輔仁会雑誌」1938  7月
(22)「全集 二十巻」P9 <初出>「輔仁会雑誌」1939 3月
(23)1976『三島由紀夫事典』 長谷川泉・武田勝彦編 明治書院
(24)1972『定本 三島由紀夫書誌』 島崎博・三島瑶子共編 薔薇十字社
なお、昭和三十七年以前に刊行されたものだけを取り上げる。
光明社編「カトリック聖人伝 下」 光明社 S27
小林珍雄「キリスト教用語辞典 附・イスラム用語」東京堂 S30
佐藤清太郎「教会用語辞典」原書房 S35
セルーヤ(アンリ)「神秘主義」深谷哲訳(文庫クセジュ)白水社 S33
比尾根安定「福音と異教地盤」日本基督教団出版部 S36
モール(ジ・エチ)「ヨハネ黙示録研究の手引」須貝止訳 聖公会出版社 S12
山谷省吾「新約聖書辞典」(アテネ文庫) 弘文堂 S29
ロレンス(D・H)「現代人は愛しうるか」福田恒存訳 白水社 S26
「聖書」日本聖書協会(発行日記入なし)
「旧新約聖書」聖書協会 盟(奥付なし)
「引照 新約全書」聖書館 M32
(25)1990『新潮』十二月号「空っぽの『近代』」富岡幸一郎 P226
(26)1993『国文学』五月号「隠された古典 小説に見る物語要素・類型」池田和臣 学灯社 P130
(27)1957『日本古典文学大系9 竹取物語 伊勢物語 大和物語』 岩波書店 P60
「かぐや姫のいはく『月の宮古の人にて、(略)」(傍線筆者)
 なお、『定本 三島由紀夫書誌』 P322に次の記述がある。
岩波書店「日本古典文学大系」全100巻及び索引2巻揃 S32・8・30 重~S43・2・5
(28)『全集 二十六巻』P304「宮崎清隆『憲兵』『続憲兵』-わが読書」<初出>1953 9月
(29)『全集 二十七巻』P187「小説家の休暇」<初出> 1955 11月
「とにかくわれわれは、断乎として相対主義に踏み止まらねばならぬ。宗教および政治における、唯一神教的命題を警戒せねばなら ぬ。幸福な狂信を戒めなければならぬ。現代の不可思議な特徴は、感受性よりも、むしろ理性のはうが、(誤つた理性であらうが)、人を狂信へみちびきやすいことである。」

初出 「言文」47号 1999 福島大学国語国文学会(2000年1月31日編集兼発行)

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及川 俊哉(おいかわ しゅんや)
1975年岩手県生まれ。現在は福島県在住。
2005年、12月23日、は東京駅「銀の鈴」前で突如として「ウルトラ」2代目編集長に任命され、現在に至る。
2009年 詩集『ハワイアン弁財天』(思潮社)発表。

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