六本木詩人会 六本木詩人会 ホテルアイビス六本木

ネットワーキングラインの詩業。サイバネティックな詩行。

マリウシュ・ピサルスキ作 及川俊哉訳 Wendland亜貴監修




ロボット―IT技術者にとっての―は人間の形態を取るように指示される。詩情ポエトリー―幾人かの詩人にとっての―は言語を材料にしたマシーン機械である。神経制御的詩情サイバネティックス・ポエトリーはそれらの二つの思想を結び合わせ、次のような疑問を提起する。すなわち「詩はこれまでもいつも神経制御学サイバネティックス分野ドメインだったのではないか?」と。そしてもしこの問いが真実なら、詩業ポエトリーとはいったいなんなのだろうか。そしてわたしたちはまだ言葉をその建築物の一部とみなすことができるのだろうか?

 ロマン・ブロンボシチ、ウカシュ・ポドグルニやトマーシュ・ミシャークらのデジタル作品はわたしたちには一見取りつきにくい。これらの作品は彼らの独特な生活においてのみ息づく自己充足的な作品であり、読者を無視するものだという者もいる。しかし、彼らが彼らのショート・パフォーマンス・ライブ上演中にわたしたちをそこに引っ張り込むことができたなら、彼らの鼓動を感じることができ、読むことの喜びに似た経験をしたり、前述の疑問が生じはじまるのを感じたりすることができる。

神経制御的詩情サイバネティックス・ポエトリーと伝統~
 ポドグルニの作品を解説するための明確な視点はダダと未来主義フューチャリズムである。彼のウェブサイトで彼はわたしたちを言葉少ない彼自身の説明に招く。しかしそれは「gylyryjyn fytyryz lydywych cybyrstyrcyj」というようなわけのわからないちんぷんかんぷんな言葉で書かれている。ロマン・ブロンボシチとトマーシュ・ミシャークはおそらくフルクサス・ムーブメントの影響を受けている。彼らの音速的でアニメ的な作品はコンピューター・スクリーンにおいて行なわれるパフォーマンスに由来しているように見える。より広いコンテクストの中においてみるならばわたしたちは簡単に比較調査の帰結をむかえることができる。しかしより決定的と思われるもう一つの様式がある。たとえそれが3人の作家すべての主旨ではなくても。

 意味の構築に従事する、現実や仮想の機械マシーンに基づいた文学的実験の全体的な領域がある。偶然に依存している、義肢補綴的プロステティックだと呼ばれるもの、これらの種類の詩は形式的なルールと演算方式アルゴリズムを作品の内側か外側にもつ立場に立つ。そしてそれらの根は俳句や古典的ソネット技法やバロック・ロンド体詩型やアナグラム字謎に由来している。形式に制約されながらも生成力のある源基エレメントに基づいたアフォーダンスやランダムさが、チャールズ・オルセン、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、レイモンド・ラッセル、ハリー・マシューズ(そしてウリポOulipoのメンバー)らのいくつかの作品には見られる。彼らの作品による最も重要なレッスンは次の二つのことを思い出させる。
 
第一に、神経制御的詩情サイバネティックス・ポエトリーは言語的芸術には限界づけられてはいけない。テキストの断片、ペインティング、音楽作品(ジョン・ケージと彼の偶然性の音楽)そしてさらに映像(ピーター・グリーナウェイによる演算的アルゴリズミック義肢補綴的プロステティックな映像)などが「サイバー・ポエティック」作品にもりこまれているものと推定される。このパースペクティブものの見方の中ではジョージ・ペルクの「ライフ:ユーザーズ・マニュアル」のような不透明な作品も神経制御的詩サイバネティックス・ポエムだと言える。
第二には、一般的に、広い意味では、詩はサイバネティックスの元素エレメントをもつと言える。ライム詩行を例に取ってみると、レイモンド・ラッセルによる描写のように製作の過程を作者に向けようとはおそらくしない。
 詩的言語への混合的な元素エレメントの導入によって、共通の規則に則っていた古典的で前近代的は詩作品は機械に変貌していく。ミューズ女神が詩人に対して処方する詩行はもはや単なる隠喩ではない…。
 
 詩と散文、言語作品と非言語作品などに共通な境界線を重く見て考え直すことで、わたしたちは神経制御的詩情サイバネティックス・ポエトリーという一つのおどろくべき局面に出会う。しかしこれ以上に重要なことがある。いま懸案の詩作品たちをわたしたちはギャラリーや印刷された本のページのうえで見るのではない。なぜなら神経制御的詩情サイバネティックス・ポエトリーは先人の詩作の手続きをデジタル環境の中に置き換えてしまうからだ。その機械は処理装置-わたしたちのパソコンの心臓部だ。

意味はどこへ行ったのか?知覚されるのはわずかな単語だけだ。
 「Echem」「四つの価値」「bycie.i.czas(存在と時間)」や「artykulator(「art」と「kurator(キュレーター)」の合成語)」といったロマン・ブロンボシチの作品は数学的で概念的コンセプチュアルな小作品で、ミニマリズムの美学とアタリ社のコンピューター・ゲームをその魂において結びつける。それらの作品は使用者/読者/聞き手が操作することができる。音楽とアニメーションはここでは言葉に劣らず重要である。他方ではウカシュ・ポドグルニの「klawikord」(クラヴィコード)と名付けられた作品は、拡張された範囲での多様な例であり、小さな画像の単純な宣言書によるダイナミックでアニメ的で相互対話型インタラクティブな音声ポストカードである。これらの作品には普通の所は少しもない。知覚の基本的な単位は一行の詩でも単語の集団でもイメージでもない。それは何かわたしたちがスクリーンの上に見たものとわたしたちの反応との間に意味を当てはめてみる時間なのだ。

 ロラン・バルトによるとバルザックを読むという知覚の単位としての経験は、わたしたちが本を読むことをやめ、没頭していた世界のイメージを考えてつく深いため息の一瞬によってか、あるいはあまりにも疲れすぎてそれ以上読めないという一瞬によって計量される。この明言されていないが疑うべくもなく文よりも長い読みの単位―語単位レシ=八〇年代から九〇年代のハイパーテクスト・フィクションにおけるもの-はテクストや段落の一つのスクリーンの形を持っていた。

 ブロンボシチやポドグルニの作品においては語単位レシは簡略化され、そして―逆説的パラドキシカリーなことに―分散されている。もし神経制御的詩情サイバネティックス・ポエトリーの作品が四〇秒間パフォーマンスされるならば、そこにはほんのわずかの語単位レシしかなく、もっと短くなるか、全く何も起こらない可能性もある。勝利を得た読者は彼の私的な意味―一つの意味の単位―を見つける。スクリーン上でデジタルな芸術効果がその形を変化させることから作品の潜在的なパターンを探ることで、か、あるいは潜在的な意味が運びきたる何ものかを見出すことによって。それらの意味に満ちた断片は神経制御的詩情サイバネティックス・ポエトリーが読まれ/見られ/相互対話インタラクティングされたときに得られるかどうかという賭けのほうびのようなものだ。一度でもわたしたちがそれらを集めるなら、われわれはそれらをともにリンクづけ、より高次の意味を構築することができるし―もしわたしたちが望めばだが―わたしたちはそれらをこのオリジナルの半=分散した形に留まらせることもできる。この場合単に作品の痕跡はその雰囲気と味わいを継続するだけだろうが。

 トーマシュ・ミシャークの暗号作品コード・ワークスは多少の差はあるが、ポドグルニの静的な作品に似ている。彼らはネット・アートで有名なメッズ(Mez:Mary-Anne Breeze)によって定式化された戦略ストラテジー(「コンピューター・コードは対等で可視的な意味の運び手としてすべてのレベルで使用される」というもの)をグラフィカルなアプローチで表現する。デジタルなスローガンと歪んだデジタルな背景は共産主義者への皮肉な敬意を表すものとしてよく使われる。それぞれの時代にそれらだけがポーランドの町をいろどった路上のグラフィカルな広告だった(である)からだ。ポドグルニの作品とブロンボシチの作品が歪んだデジタルな「ポストカード」に関わっていると言えるなら、ミシャークの作品はデジタルな歪んだ「看板」だと言える。

神経制御的詩情サイバネティックス・ポエトリーにおける「語り」~
小説でも映画でも、もちろん叙情的な形式の詩でも、そこには、話されたり表現されたりするときの直線的な順序という目に見える表現世界内のdiegetic軸がある。あるものが他のものに続くのが一般的で、後説法analepsis予説法prolepsis(物語の先頭か結論で象徴する方法)であってもこの直線性の変種にほかならない。ジャン=ピエール=バルペの「わたしたちは始原アレフ(ヘブライ語アルファベットの第一字)においては直面しているそのものが何に属しているのか、それは以前にはどんなものであったのか・これからどうなるのか、とか、あらわれでている構造は重要なものかそうでないのかという手がかりを与えられない。」という主張に代表されるように、神経制御的詩情サイバネティックス・ポエトリーにおいてはすべての文やアニメーション場面シークェンスや時にはすべての単語さえ自律した独自性を持つ。これはデジタル作品がホログラフィックな原理やその機能単位性を持つことから生じる現象である。これらの専門用語は新しいメディアの性格の一面を定義づけているけれども、わたしたちはこれが二〇世紀のアバンギャルド芸術の戦略として扱われていたことを思い出すだろう。ジョン・ケージの作品は同じようにはっきりした一定のはじまりや中間点や終わりをもたないということで批評家たちをイライラさせていた。
機能単位性モジュラリティーやホログラフィックな原理は物語の語られ方を変化させる(わたしたちが出会う芸術作品たちのすべてに物語性を読み取ろうとするのであれば、だが)。それは手品師の帽子から言葉をひろいあげていくのに似ている。それのみならず、もう一つの要素がある。目に見えない、カチカチと音を立てる時計を設定したメカニズムが作品をデジタル暗号化するルールとして組み入れセット・アップられている。それは条件付きで異なった部分の素材―それは鑑賞者の入力した内容によって作品の原因になっている―にリンクする能力で、わたしたちの感覚を不確かなものにする。たとえば、わたしたちはスクリーンに映し出された九個から十六個に区切られた正方形を見る。わたしたちがそれらのうちの一つをさまようと単語が現れたり音が聞こえたりする。わたしたちをもっとシステマティックにするものでは、A1のフィールドからはじまりD3のフィールドで終る。それをやってしばらくすると、生意気にも読むことを終わりにさせたくなり、閲覧用ソフトを閉じたくなる朗読が流れてくる。同じ演算式アルゴリズムの同じ作品が最も体系立った読者に最もつまらないバージョンの「物語(そうよべるとしたら、だが)」しか述べないとしたら、何が彼らの正方形フィールドに対するランダムで混沌としたクリックという労力に報いるのだろうか。アーティスト・プログラマーにとってこの手の介入インターヴェンションはお手の物だ。しかし必ずしも結果が伴うわけではない。伝統的な作家にとってこれを受け入れるのは難しいにちがいない。

 デジタル環境の「語り」にとって過酷な状況において作品の最小の部分は一つ残らず願意と影響を含まなければならず、理解しにくい全体性を代表して話さなければならない。潜在的な物語は―仮にそれがあるとして―読者や見る者たち自身に対し伝えられているものである。もちろん、ポドグルニやブロンボシチやミシャークの作品のいくつかの実例はもっとシンプルかもしれない。しかしこの種の「語りナラティブ」を再定義する能力がいつもある。それゆえ、神経制御的詩情サイバネティックス・ポエトリーは議論の広がりに、またより高いレベルの「語り」に、現代芸術の状況についてや、その「語り」の能力に関与する。
 隠れた演算式アルゴリズムと目に見える作品、そして「語り」の潜在性と実際のリーディング・セッションの間の緊張感は過激な批評を呼ぶことになるにちがいない。詩にとってそれらはあざけりや冒涜ともとらえられよう。しかしやはり、彼らの詩は、その戦略ストラテジーと詩とアートにおける彼らの特異性、魅力、新しい方向性を示しているのだ。

作者とはだれか?
作者と作品の享受者ユーザー(特に作品がインプット操作を要求する場合の)との間には一対の興味深いコード暗号とパフォーマンスによる通信のレベル―メカニクス技術のレベルと提示プレゼンテーションのレベル―が横たわっている。それらは作品の方針の中でたえず変化するひとつのフィードバック・ループで一緒に結びつけられている。作品は読者の動き次第であるか、読者には映画を見るように活動しないことを求める場合もあるし、その場合は暗号コードの中に本質的なシナリオは隠されている。

神経制御的詩情サイバネティックス・ポエトリーはコンピュータによって創作されるのでもなければロボットによって創作されるのでもない。そこはサイボーグの領土ドメインなのだ。作者はその創作の過程をコンピューターやそのプログラミング言語やインターフェースや制約や受能的機能アフォーダンスによってプロスティーシス義肢補綴されながらサポートされる。神経制御的詩作品サイバーテクストの歴史においては―特に「コンピューターによって生成された作品」などという極端な例では―人工知能のばけの皮ははがされてきた。最終決定をくだすのはいつも人間であり、人間が望むような「詩的」で「芸術的な」作品を作らせるのは、いつも人間なのだ。プログラマーにとってはコンピューターはまったく賢くも知的でもない。コンピューターはプログラマーたちによってバカのように見えないように教えこまなければならないほどのバカ者だ。ステファン・キングは彼の新しいベストセラーの小説でコンピューターは単なる道具で、静かでよい召使いだと述べている。ポドグルニやブロンボシチやミシャックにとってはコンピューターはステージ上に投げ出された見せ物小屋のフランケンシュタインの怪物みたいなものだ。作者がそこにいる間はシーンの裏側や観客たちに入り交じっていると、奇妙な声が怪物から発せられてくるのを-コンピューターの故障したような音に似ているが-メインボードに聞くことができる。怪物によるパフォーマンスの結果は予想できるものではない。

反=外交儀礼/通信制御処理コントラ・プロトコルズ芸術としての神経制御的詩情サイバネティックス・ポエトリー
 歪みディストーションはポーランドのネットワーク・アート詩人の流行を解説するひとつのキーワードであり、わたしたちは彼らの戦略を「歪みの詩業ポエティックス・オブ・ディストーション」と呼ぶことができる。そしてそれはわたしたちをおどろかせるものではない。それは結局のところどのようにしてネットワーク・アートが出来上がってきたのかしっているからだ。本来の目的と全く異なるコンピューターの使用は実用にならないし、さらに機械の生命と使用者の健康を危険に追いやる。この局面はパフォーマンス・アートにも密接に関わってくる。さらにもう一つ別の問題はデジタル空間でのコミュニケーションと人間の品行の交流儀礼/通信制御処理プロトコルズを規則破壊してしまうことだ。この局面は芸術を批評理論に密接に近づけていく。
 
 神経制御的詩情サイバネティックス・ポエトリー歪みの活動ディストーショナル・アクティビティは二重性を持つ。伴奏される歪んだサウンドと共にインターフェースを歪ませエラーさせるポドグルニやミシャークのグラフィカルな作品は、わたしたちの日常のウェブ上での決まり切ったやり方ルーティンの固定化した態度を批判するものと見なされる。他方では彼らはデジタル・アーティストの創造の過程に対し再考を促してもいるのだ。ブロンボシチの作品がコモドーレ社やアタリ社のコンピューターの音響やグラフィックの環境を想起させるのは偶然ではない。また「ふつうナチュラル」詩語とコンピューターコード記号でできた判読しがたい詩行をぶつけようとする彼らの試みも偶然のものではない。神経制御的詩情サイバネティックス・ポエトリーはいわゆる「詩情ポエトリー」のあり方からは遠く離れており、イメージと言語に批評的なアプローチをするが、デジタル・メディアの本質the very digital mediumを―それに寄生しつつ―批判してもいるのだ。





(初出 「KSIAZKA I CO DALEJ 7/BOOK AND WHAT NEXT 7」2008年 GALERIA AT(ASP)発行。原文は英語。 この翻訳文は「ウルトラ 12号(2008年10月発行)」に掲載したもの。)

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及川 俊哉(おいかわ しゅんや)
1975年岩手県生まれ。現在は福島県在住。
2005年、12月23日、は東京駅「銀の鈴」前で突如として「ウルトラ」2代目編集長に任命され、現在に至る。
2009年 詩集『ハワイアン弁財天』(思潮社)発表。

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