(1)「文化的な身体観」とパソコンの「OS(オペレーションシステム)」
みなさんは「ヘリウム・フープ」という遊びをご存じでしょうか?この遊びはよく地方の少年自然の家などで仲間作りの集団遊びとして取り入れられているものです(参考→http://www1.s-cat.ne.jp/iwase/jissensouko/ws/herium.htm)
遊び方を簡単に説明しますと、フラフープを用意し、数人の集団でそのフラフープを片方の手の人差し指にのせて持ちます。このとき、指はピストル型にしておき、親指を使ってつまんだりしてはいけません。さて、このフラフープを床まで降ろす、というのが、この遊びのゴールです。話だけを聞くと簡単なように思いますが、実際にやってみると大変に難しいものです。なぜかフラフープはしばしば上空に向かってしまい、指の離れてしまう人がでてやり直しになってしまいます。このように上空に向かう動きが出てしまうことを、まるでヘリウムガスの風船のようだというので、「ヘリウム・フープ」という名前が付いています。なお、人数が多ければ多いほどこの遊びは難しいそうです。
自然の家では、このゲームがなかなか難しいことから、みんなで楽しく集団作業に取り組んで、より良い人間関係を作ってもらおうという目的でやっているので、どうすれば床まで降ろすことができるか、という正解は教えてくれません。つまり、試行錯誤しながら、時には成功しなくっても、みんなで何かに取り組んだ、という事実が集団性や協調性の訓練につながるという教育的な観点があるわけです。
もちろん私もこのような考え方に賛成です(特に現代の地域社会共同体のバックボーンを欠いた学級集団のような人工的な社会には人為的な介入が不可欠だと思っています)。しかし、今回のこの論考ではヘリウム・フープの教育的な価値について述べることが主眼ではないので、ないしょでこのゲームの必勝法をみなさんにお伝えすることにしたいと思います。
まず、普通にヘリウム・フープを始めますが、その時に、グループのみんなに「フープ円の中心点から降りる垂線上の任意の一点」を片手で指さし、「ここに力を集めよう」と呼びかけるのです。これだけで、なぜか、フープはまっすぐに床まで降りていきます。
この必勝法は私が何度かヘリウム・フープをやった結果編み出したものです。しかし、考えてみると非常に不思議な身体現象だと思います。
おそらく、人間は意識の上で、架空の任意の点に力が集まるかのように身体を動かすことができるのです(この、「かのように」という部分が大切で、実際には力はフラフープ上にしか、かかっていません)。身体制御能力としてはかなり高いレベルのないようではないかと思います。と、いうのは、実際に力を与えられる面や点に直接力を与えることは、普通にどんな動物でも行なうことができるからです。しかし、直接接触しない遠隔点に力が集まるかのように振る舞うことは、身体制御能力の上でかなり高度な技術を必要とすると思われるからです。
実は、こうした身体制御能力は、合気道や中国武術などの、東洋系の武術の達人に見られるものです。触っているのは腕や手のひら(極端な場合は指先だけ)などなのに、相手の中心軸を崩して投げ飛ばしたりすることが、彼らには可能です。
多くの場合こうした能力はいわゆる「気」や、超能力の類と説明されがちですが、私は自分の経験からいうと、まず第一義的には身体に対する考え方、つまり身体観が通常に考えられているものと彼らとの間で全く異なっている、という点が大きいのだと思っています。
私自身もここ数年ある流派の武術を練習していますが、その過程で次第にわかってきたのは、東洋の武術が持っている身体観が「ベクトル集合型」であるということです。
どういうことかといいますと、西洋の格闘技の考え方は、単純化していえば、人間の身体をボーリングの球か鉄球のように、中心まで物がつまった「ムク」のものだと考えているのです。したがって、スポーツ的格闘技の試合では体重制を設けて、重い人間と軽い人間が戦わないように配慮します。体重の重い者は軽い者より有利だと考えているからです。これは、いってみればボーリングの球を転がしてぶつけ合ったとき、重い方が軽い方をはじき飛ばす、というイメージで人間の身体をとらえていのだと考えることができます。マスというか、「塊」として人間の身体を考えている。
これに対し、東洋の考え方は(もちろん私が経験の上から導き出したある種の「たとえ」ですから異論もたくさん出てくるでしょうけれども…)人間の身体を東京タワーや鉄骨塔のような「力の網の目」の集まりとして考えている。そして、その鉄骨を伝わって複雑に力が流れており、これを一点に集めたり、相手のバランス軸の中心(丹田)に力を流して(伝達させて)、相手を崩したりということができると考えている。したがって、この力の流れを精錬させて、速やかに無駄なく力を流すことに長けている者が強いのであって、その意味では老人や女性でも、巨漢を倒したりすることは可能だと考えている。このような東洋的な身体観が実在することの例証が先にあげたヘリウム・フープだと思います(ただ、念のため急いで付け加えておきますが、ヘリウム・フープができるようになったからといっていきなり武術の達人なみに強くなれるわけではないと思いますのでご注意下さい)。
私はこのように、東洋の伝統的な身体観と西洋のそれとは大きく違っていたのだと考えています。
もう一つたとえを述べましょう。そうすればよりわかりやすくなってくると思います。
身近なパソコンのことを考えてください。みなさんがご使用になっているパソコンは、オペレーションシステムはウインドウズでしょうか?それともマックでしょうか。リナックスをご使用の方もいらっしゃるかもしれません。パソコンのたとえを使うとわかりやすいのですが、原理的にパソコンは、どんなものでもハードとしては同じものです。電気の通る基盤の上にシリコンをのせて高速で計算ができるようにしたものに過ぎない。しかし、オペレーションシステム(以下OSと略記します)はそれぞれ、全く違います。ウインドウズとマックのOSはそれぞれ基本的な設計が違うので、それぞれの上で動くアプリケーションソフトも、それぞれ違うものにならざるをえない。
私は、東洋と西洋の身体観の違いを、このOSの違いのように考えるとわかりやすいと思います。ハードとして考えたときの身体は、地球上のどの人間も同じです。アフリカ人のおなかを切っても、日本人のおなかを切っても、心臓や胃や内臓などの位置や働きは一緒です。解剖学的な身体は、全人類共通の設定になっています。
しかし、世界中でそれぞれの地域文化が育んできた身体のOSは、それぞれに全く異なっており、それぞれの地域文化の伝統ごとに無数にあるといっていいのだと思います。
健康と病の区分も、厳密なところでは西洋的な身体観とその他の身体文化では異なっており、オリンピック的な運動能力の多寡も、身体文化が異なれば無効になる可能性がある。一つの身体文化の基準で病気であるといわれたり、弱者であるといわれたりする身体が、他の身体文化の基準では復権するということがありえます。
一つの例としては、映画「AIKI」のモデルとして有名になったデンマーク人の武術家、オーレさんが挙げられるでしょう(http://ja.wikipedia.org/wiki/AIKI)。オーレさんは半身不随の障害があるため、車いす生活を余儀なくされていますが、日本の合気道に出会い、車いすに乗った姿で健常者と互角に戦っています。西洋的な身体文化の基準では弱者とされる人でも、他の身体文化の基準では健常者と互角になるということがあり得るわけです。
多少余談になりますが、このような事例を見るに付け、私は身体のOSの多様性にもっと多くの人々が気付き、これを継承していくようになってくれないかと、いつも願っています。なぜなら、人類が身体のOSの多様性を保っていくことは、人間の人権の平等に関わると思うからです。日本の憲法では「身体の自由」が保証されることになっています。これは通常「不要な拘束を受けない」という意味にのみ解釈されていますが、概念を拡張して考えるならば、身体のOSの多様性を保証し、一方の身体文化の基準でマイノリティになっている人も、他方の身体文化の基準では復権することができる、という意味に解釈するべきだと思います。
(2)詩と身体の関係
この「六本木詩人会」のHPに詩を寄せている野村喜和夫のエッセイに「詩とダンスと(http://po-m.com/inout/07nomura01.htm)」というものがあります。
「私がダンスをよく観るのは、私が詩を書いていることと関係があるのかもしれない。もってまわった言い方はよそう。かつてマラルメは、バレーする身体を象形文字の戯れとみなして、独特の空間的テクストを夢見た(その影響ははるかフォーサイスのダンス空間にまで及んでいるように思える)。また、マラルメの弟子のポール・ヴァレリーが、その「詩と抽象的思考」という論文のなかで、散文を歩行に、詩を舞踊にたとえたのは、さらにいちだんと有名な話だろう。詩はダンスと相同である。詩はことばのダンスであり、ダンスは身体の詩である。ことばも身体も、ふつうのひとはある目的のための手段として、しかもそのことを意識する必要もないまま使っている。手は愛撫するためにあるのだし、発話は説得や恫喝や愛のささやきのためにあるのであって、そのときことばも身体も、いうなれば透明だ。ところが、ことばや身体が手段であることから離れてみずからを意識し出すとき、いいかえれば、透明な媒体から不透明な物質へと姿を変えるとき、詩やダンスが始まる。
ダンスを見てすてきなのは、それが一元的な意味には回収されないということだ。物質のすごさである。身体がひととき恐ろしく美しく、あるいは痙攣的に動いたという印象が刻印され、そのまわりに、多様な意味の層が、うっすらと靄のようにまつわりつく。詩も同様だろう。まずリズムやイメージの訪れがあり、遅れてようやく意味がやってくる。似た者同士、馬が合うようにして、これからも私はダンスの公演に足繁く通いつづけることだろう。」(HP「いん・あうと」2006年 傍線は筆者)
ここで野村は詩とダンスの共通性を二つの側面から語っています。
一つは、「詩もダンスも目的性から解放されている」ことです。これは詩の解説書などでよくいわれることですが、詩の言葉は直接何かを指し示したりという、直接のコミュニケーションのために発されるものではない、という性質があります。出前を取るときの「ラーメン三つ」という言葉や、「通行禁止」などという看板の文面のように、直接何かを訴えたいという目的のために発語されるものではない。
なんのために目的性から解放された、役に立たないような発語をするのかということは大きな問題ですが、他の芸術分野で、たとえば印象派などが形態を模写するというそれまでの絵画の常識から、色彩そのものの乱舞を楽しむ、という方向性に先鋭化していったように、言葉そのものの持つ可能性を追求するという自己言及的な表現技法をとって、表現を前衛化していこうとした、というのが一つには言えると思います。このような前衛化の方法はあらゆる芸術ジャンルで起きたもので、音楽でも彫刻でも演劇でも、同じように自分たちが扱う素材それ自体を表現として追究する運動は起りました。ダンスの分野でも、モダン・ダンスやパフォーマンスや暗黒舞踏などは、同様に身体そのものの持っている可能性それ自体を追究するという方向性で発展してきています。
もう一つの理由は円滑であるかのように思われているコミュニケーションへの不信や、批判です。私の詩の先生である澤正宏は、よく「詩人はコミュニケーションに病んでいたり絶望したり、あるいはそういう経験を過去に持った人が多い」と言っていますが、実社会でうまく人間関係が作れなかったり、人と気持ちをうまく交流させることができなかったり、そういう経験を持っている詩人は多いようです。また、そういった経験を出発点にして、コミュニケーションの流通が円滑であるかのように見える多数派の社会を批判的にとらえる、ということができている詩人が、よい詩人だと言われてきているようです。コミュニケーションの流通性が高い社会は、便利であるような反面、流通性が低い少数者の意見を抹殺する傾向があります。いわくいいがたいような思いや、言葉にしがたい感情などは、情報を円滑に流通させたい権力にとっては邪魔者です。したがって(詩人本人が意識しているかしていないかは別として)社会批判や権力批判などの左翼的な立場と結びつきながら、前衛的な詩の表現が追究されてきたという歴史があります。それがダンスと詩の似ているところとしてあげられるということです。
二つめは、詩とダンスの多義性です。モダン・ダンスや舞踏は一つの意味に回収されるのをきらいます。盆踊りや民謡の踊りなどと比較してみればわかりやすいと思いますが、伝統的な踊りが田植えの様子の再現であったり、手をかざして遠くの山を面白く見ている様子を示す、などといった一義的な意味を強く押し出してくるのに対して、ダンスは、その逆をつこうとねらいます。痙攣や硬直といった身体動作を取り入れてくるのには、やはり現代社会への批判を表現するもの、と言えますが、それだけには留まらない部分もあります。このように、多様な解釈へ人間の思考の幅を拡げさせようとうながすのが、現代の詩やダンスの共通点だと野村は述べたいのでしょう。また、それが人間の自由の拡大につながると考えて評価しているのだと思います。
さて、以上を踏まえながら、次回はもう少し詩と身体の関係について探求を深めていきましょう。
(つづく)















