もう何年も前のこと。
ラジオのDJをしている知人に話を持ちかけられたことがある。DJが朗読をし、歌い手がうたを歌い、わたしが短歌朗読をする。ライブということだ。
それを聞いた瞬間に、わたしはああ負ける。と思った。そしてその話はどこかに行ってしまった。
今回の依頼をいただいた時、その時のことを思い出した。
歌い手には、声とメロディや楽器、そして何より歌い手の佇まいがある。それで説得することができる。短歌をつくっているわたしに、そういったものはない。また特にほしくもない。だからうたをつくっているのだと思う。
わたしは短歌をつくっている。身体の中で外に向かって発音したくてたまらない音がある。身体の内側では、何度も何度も発音している。上手に発音できない、音。
だけど、それを声に出して届けたいとは思わない。何だか矛盾しているようだけど そうなのである。
うまく表わせなかった感情を、はじめて表わすことができた。ノートの中に居場所が見つかった。うれしかった。印刷機やパソコンの類いを持っていなかったので、人に頼んで、文字を打ち込んでコピーしてもらった。それをはさみで切り取って紙に貼りつける。
表わしかたに迷いがある時は、一行をばらばらにして、どれが一番「そのとき」を表しているのかを思って、紙のうえで あれこれやる。
気持を表わしたかった。ぴたりと表わしたかった。
自分の感情がこの世に存在しないことになるのを怖れていたのかもしれない。
一行あけ、分かち書き、ひらがなの多用などと評されるとは思っていなかったし、突飛なことをしているとも思っていなかった。
歌集からひとつひいてみる(①)。
らいとのした まだどきどきとしていますきすするまでがいちばんきれい
今橋 愛(『О脚の膝』)
一本の「らいと」をイメージして一行にした。内容によって表わしかたを変えるので、石川啄木のように分かち書きで。というこだわりはない。
比較のためにもうひとつ(②)。
わたし
てがみ
こいぶみ
なつのてがみ
あいのてがみ
てがみよ
にげのてがみよ 今橋 愛(『О脚の膝』)
このうたなら「あいの」までで一旦止まって、「てがみ てがみよ」と読んでほしい。ふたつめの「てがみよ」はできるならこころの中、音を変えてほしい。同時に「にげ」ている感じも一目で感じてほしい。
わたしはてがみである。ということと「てがみよ」。この声を、あの頃のわたしは誰ともつかない誰かに。ただ切実に伝えたかったのです。
もし読者のこころの中、思うとおりの音をならしてもらうことができたなら。それは声で届けるより、もっとこころの深いところに届けることのような気がする。
もうひとつ(③)。
その人は近くて遠く在るゆゑにわれを歩ます天の青さへ 小島 ゆかり(『エトピリカ』)
読者を無理やりではない力で、高い場所へと視界をすーっと。向かわせてくれる、とてもやさしいうた。このうたを忘れている時は、こころが閉じている。このうたを思い出せるこころの時は、わたしの上にそらがあることがわかる。こころでとなえる、おまもりのようなうた。
こころでとなえる。そうか、こころでとなえるためにうたをつくっているのかもしれない。無言で。無音で。声にはしない。でもこころの中では音がなっている。こころの深いところ、あるいはこころ全体で。なっている。
比較することはできないし、勝ち負けではない。それはよくわかっているけれど、例えば③のうたがこころに広がっていく時に吹く風の涼しさは、DJの朗読や歌い手の表現に負けてない。
何年かたった今のわたしは、ぼんやりそんなことを思っている。
あなた水のうえにいるのに
あなた水のうえにいるのに
さみしそうなかお 今橋 愛
(初出 短歌研究2009年8月号 特集「目で聞き、耳で読む」より)
こころの中では音がなってる
今橋愛
今橋 愛(いまはし あい)
1976年大阪市生まれ。歌人。
2002年、「O脚の膝」100首で北溟短歌賞受賞。
著書に歌集「O脚の膝」。同人誌〔sai〕、snell、未来短歌会に所属。
ホームページhttp://www.aaaperson.jp/
















こんな短歌もあるんだと思いました。(結構古風な短歌にシフトして居るので)。これで今橋氏に3件目のコメント投稿ですが、今回のが一番読みでがありましたね。そして今橋氏の短歌に対する思いが実によく伝わって来ました。最後に引用されている自作の短歌は一つの詩だと思えました。こんな短歌が詠めると言うのは一つの希望だと思います。