一昨年の春のイベントで「詩を書いていたら、ぱたりと手が止まっちゃった」と詩人吉増剛造はしずかに語り出した。そして一言。「しばらく詩を書きません」。え、ヨシマスゴーゾーが? ひどく驚いてしまった。数ヶ月ぐらい経って吉増の朗読パフォーマンスを再び、目撃することになった。詩を書かなくなってしまったのだから、一体どうするのだろう。とまどいつつ、ワクワクした。
ある日にタクシーに乗り込み撮影した、旅の風景の映像。それをスクリーンに映し出して、その脇で場面の解説を入れるというステージ。それだけなのに、とても刺激的だった。走行中に、雨がいたずらのようにぱらりと降り、ワイパーが突然に動く場面があった。「ワイパーが動きました。私たちに何かを語っていますね」。詩人の不思議でユニークな呟き。私たちは笑ったり、洒落た言葉に心を動かされてため息をついたりした。
毎日芸術賞を受けたばかりの詩集「表紙」(思潮社)を読んだ折に、この時の感心を思い起こした。本書は正に、詩を書かなくなってからの〈呟き〉に満ちている。この本の成り立ちは、たくさんの道行きの写真と、それを撮影した時の日記に拠っている。そこに休筆宣言する前のいくつかの詩が加わる。「現代詩手帖」という雑誌の表紙に用いるために撮られたものが多い。稀代の詩人がもたらす、夢のような景色を見つめる。
脇に添えられた記録を丹念に読み味わう。あるところには「とうとう吉増剛造が消えていくことを実感する」などと書かれている。興味深いところを発見。「きのうのセンセーションのま丶に……睡りのなかで、(詩作)に入っていたらし」。なるほど今は眠っているのか。この書物が綴じようとしているものは、旅の日々か、フォトグラフか、新しいヨシマスゴーゾーか。果たして、これは詩集になるのか。
たくさんの資料から編集がなされた。長い紀行の間から丹念に選び取った印画と日録とが響き合う。特別な意味をつかまえようとする彼の手さばきを大切にして、写像と文字を編んでいる。眺めているうちにこちらの眼が変わってくる。書く手を止めているだけであり、執拗に追われている詩が見えてくるのだ。それがほとんど書かれていない詩集というものが出てきた。凄い。蛇足だが、詩人は時々に飲み過ぎている。翌日に猛省。しかしすぐ後日に痛飲している。お酒は止めていない。
二月十七日付読売新聞文化欄 詩時評
吉増剛造 休筆でも「見える」新作
和合亮一
和合 亮一(わごう りょういち)
1968年生まれ。
第1詩集「AFTER」で第4回中原中也賞(1999年)、第4詩集「地球頭脳詩篇」で第47回晩翠賞を受賞(2006年)。
読売新聞・日経新聞(夕刊)・ディズニーファミリーサイト等に連載中。















