うれていた果実よ 墜ちていった顆たちよ
魂の傷口よ 渦よめぐれ 渦よめぐれと
ひねもす嘆いていた海よ 沈んでいった回廊よ
亡びるためにあったのか 海よ ああ海よ……
中村稔の詩をこの夏の間、取り憑かれたように読み耽った。常に不思議な質量感が心に残り続けていた。それはこの詩人がソネットの名手であり、これまでの詩業の基調として持ち得てきたフォルムの意味を考え続けていたからであろうか。あるいは、何よりそこで試行され続けてきた、この詩人のメタファーの多義性にあらためて目を奪われてしまい、その暗喩の本質に圧せられていたからなのかもしれない。
ソネットや四行詩形式などにこだわっている中村の詩法に、真っ直ぐに思いを馳せてみる。岩をも砕く思いでこの硬い守りを、試みに突き崩してみたいという野心はもちろんある。どこか一貫した気圏のようなものが、中村の詩作品の内界にはいつも在る。どのような多彩な意義性の読みの時空間にそれが落とされたとしても、頑として変わらぬ呼吸のようなもの。あらゆる変化に応じつつ、なお原形であり続けるといった、通奏したものをそこに産み出している何かの呼気と吸気とが在るのだ。
私の詩作について、他の詩人たちと多少異なっているかもしれない
と気付いていることが若干ある。はなはだ十四行詩に執していること、
できあがった作品に全く訂正加筆を加えないこと、題を付すについて
きわめて不精であること、詩を書く仲間をもたないこと、等々である。
(「現代詩大系」第七巻所収「自作を語る」より)
中村を中村たらしめていること。とても分かりやすいことだがまずは「十四行詩に執していること」の言に、尽きるだろう。言わば何がしかの前提と制約とが初めから作品世界にもたらされている。何故そのことに依り続けたのか。ところでこれを一読しさらに驚いたのは「できあがった作品に全く訂正加筆を加えないこと」という、推敲しないという点である。このようにも完成されている詩が、ほとんど手直しが施されずに送り出されているという点は驚異的である。このことについて入沢康夫は「ひとたび流れ出た「音楽」は、あとであれこれといじり回しても、悪くなって良くはならぬという判断が、ここにはあるのだろう。」と述べている。
私は咄嗟に歌人の「「形式は言葉を流し込む容器ではない。われわれの日常語を塞き止める壁、断ち切る斧なのである」(佐々木幸綱)の言葉を、中村の豊穣で厳密な言語空間に対して思い浮かべてみる。一端、塞き止め、断ち切った日常語はもう元には戻せぬという潔い覚悟と、歯切れある詩精神の現れなのだろうと感ずる。中村の用いる言葉は、その切断面があってこそ込められるものを、切られる前から多分に孕もうとするものなのであろう。それを見極めようとする濃密な気息の音がする。
十四行詩というとすぐにこの形式の先達として、中原中也や立原道造を思い浮かべるが、中村自らは詩作の上で彼らの作品から直接に影響を受けたのは、ずいぶん詩作に耽った後である、とあるエッセイで述べている。中村にとり最も重要な詩友の一人のいいだももが、中也・道造を愛読していたことから、いいだから間接的にその気風を大きく受け継いでいたことになる、とも自ら付け加えている。どのようでも良い。それにいかにこだわり、愛したか。彼自身が態度を変えず執着し、熱を長く持ち続けた事実から感じ取ることができよう。徐々にそこに肉づけするかのように十四行から脱している詩作品もあるが、あくまでも基調はここにあった。
魂の傷口よ 渦よめぐれ 渦よめぐれと
よもすがら嘆くであろう海よ 沈みゆく回廊よ
敗れるためにのみあったのか 海よ ああ海よ……
いかにも若々しい語り口である。本文の冒頭の作品から引き続く、第一詩集「無言歌」の「海」という代表的連作詩篇の一節である。先の「亡びる」や、ここの「敗れる」という語彙は、特に何かを言わんとして際立っている。一九五〇年に刊行されたという時期から察するにそれは戦後詩当初の時間と一致することに間違いはなくとも、例えば戦後詩の雄・鮎川信夫のタームである「必敗者」をめぐる詩篇と比してはしかし、とても異なる抒情にみなぎっている。
戦後詩とは言わば「戦争をくぐり抜ける方法を詩のうえで考えることを強いられた詩」(吉本隆明)であり、「日常の自然性を根こそぎ疑うことを強いられた詩」(同)である。つまりはイメージ=意味として心に残る性質を指向したものである。このように戦後詩=考える詩を編み出した「荒地」の詩人たちは、敗戦の意味を深刻に問おうとすることを、その約十年後の「もはや戦後ではない」(経済白書1956年)の宣言が皮切りとなるまで追い続けたのである。その集団的な行為は現在の詩の礎を築くこととなった。
戦争の意味は真っ向から問わなくとも、それ以降も日常から離れたところで詩を書こうと次世代はもがき続け、自由詩への文体を飽くことなく模索し、延命させてきた。ここには揺るがせない我が国における自由詩の何らかの真理があると、私も実作者の一人として確信する。比べて中村は、近代以降からの「反復」「言葉の形式や韻律的要素」による「言葉の音」によって記憶に残るような、「歌う詩」を書き上げ続けてきたし、やはり正道を詩壇に提示してきた。自由詩への全体への離反と競合、是も否も変質させるような化合の魔力の筆先でもって私たちの自由への概念に迫り、趨勢に対し逆説的かつ普遍的な詩の在処を、浮き彫りにしてきた。
「荒地」派のごとく、その体験からくる戦後の抒情を言葉の集積力で直裁的に問い続けたわけでも、あるいは例えば五〇年代詩人の大岡信のように、敗戦を中学生として迎えた感受性を例えば具体的に鮮明に「夜」や「闇」のモチーフに投影してみせたわけでもなかった。思想や固定観念の入り口は、どこにも見当たらない。伝統を負っているかの様でもあり、ラジカルにも映る十四行詩。いずれにしろこれらは言わば中村にとり、暗い敗戦を過ごした自らのアドレッセンスを、海のような豊かなる映像へと変容させる装置であった。多義的で親密なこれら暗喩の砦として、あたかもこの形態自体が詩=喩の、終わらざる何らかの問いかけのごとく、物質化されて在るようにも見えてくる。
中村は近代詩研究者として多大な仕事をなしている。初めて接する入門書の意味あいの強い書物「名詩観賞 中原中也」(講談社学術文庫)の「まえがき」において、中也の多少舌たらずなしかし親しみやすい詩句、つまり知的な遊戯ではなく真に「うた」となっている詩句が青春期の「わたしたちの心」に訴えた、と記している。「わたしたち」とは戦時中の死と隣り合わせに生きていた若い世代の「わたしたち」であり「現世からの脱落感」や「人間失格の感情」にさいなまれていたそれであったと述べている。追ってこのように付加している。
このような詩を生んだものは、中原中也という詩人の稀にみる無垢な、
傷つきやすい魂でした。この無垢な魂の真率な生活の記録が、
くめどもつきぬ悲しみとなり、嘆きとなり、また、祈りとなって、
今日わたしたちに残されているのです。
太平洋戦争の記憶が生々しい、社会の動乱期。政治の季節へと突入してゆく中で、中村は例えばこれら近代詩人の真の「うた」に「真率な生活の記録」を見、惹かれ続けていったと推察でき得るし、中也も好んで書き記した、四・四・三・三のこれらの形式を忠実に象ってきたこと自体に、受け継ごうとする意志の強さを量ることができる。そしてこれらへの確信が、幾度かの決定的な変遷を成し得てきた戦後詩の風土に、少しも迷わない通底的な態度と、時には時代錯誤とも映るような確然としたその詩型とを選ばせたのだろうと思う。
中村は、最近のある講演の中で、「詩というものは政治的なスローガンや商品のコマーシャルではありませんから、詩人が詩を書くことは、その詩によって、特定のメッセージを読者に伝えるためではありませんし、詩からメッセージを読み取ろうとするものではありません。」と述べている。激動の戦後のさなかにおいて、鮎川信夫は自らを戦死者の遺言執行人と語り、「荒地」派の思想を築きあげた。
シベリアで捕虜として抑留されて後に帰国し、その体験を描き続けた画家香月康男の今年は、没後三十年にあたる。帰国して日本の地に足を踏み入れた時、多数の戦死者の霊を連れてきたのだと直感したと香月は語った。収容所での体験をそれからの長い生涯に必死で描き続けたことは今、それを回顧するいくつかの催しであらためて知らされている。誰もが戦死者から受けた、何らかの使命を感じていたのだ。
その講演で中村は「詩というものはいったん発表されれば、作者は読者にどのような読み方をされても、それに耐えなければならない、どう読もうと読者の自由だと私は考えています」と引き続き述べている。ここから察しても中村は一度も、何らかの主張に依拠する時代の代弁者的立場を、詩作の現場においてとったことはあるまい。何にも染まらぬ縛られぬ、様々な多義性に耐えうることのみを、詩を書きつつ選び続けてきたのだろう。
考える詩の否定。代表的抒情詩人の一人、辻征夫はあるインタビューにおいて「何かひとに、この生きている感じを伝えるというか、人間ぜんたいの表現になっているところがなければ、作品として自立できない」という考え方を述べていた。付け加えて「一つの言葉を使っている集団の中の出来事なんだから、そういう人たちの回路がどこかにあるはず」と語ってもいたが、いわゆるそうした「人間ぜんたい」=回路の希求に手を伸ばそうとする時に、私たちは互いの情調を重ね合わせ、その交歓を試みようとする。そもそもこれが中村が「中原中也の観賞」解説で語った「真率なうた」の発生の原点であるだろうと思われる。事実、中村の詩作品も、読み手にどこか、かように愛されてきたと思われるのである。
海よ 暗緑の血潮をしぶく皮をはだけて
傷ついた夕ぐれの牡牛のむれよ
肩胛はたがいを波のように ふれあいながら
ひしめきあいながらもだえていた ああ海よ
くりかえし攫ってはひきおこしつつ 波間はたえず
沈めていた 馴らされた蹄と肢と
いそいでいた牡牛よ 鞭に追われ
鞭を追ってせかされるように どこの峡湾へ……
(「海」より)
中村が抱えている位相は決して情感にたやすく分明できるものではなく、冷静なものではない。吉本隆明が「詩は想像的なもの自体」と語ってみせたが、精緻に綴られつつも決して理知的なものではないことが伝わってくる。こらえきれないものを、もっと言えば、不変の若々しさをようやく留めている。ソネット形式にはどこか、流露する現在のとめどのないものを機械的に現実化してしまえる様な裁断の切れ味があるのだろう。
そして例えば夕刻の「海」を「傷ついた夕ぐれの牡牛の群れ」と、それらを雄大にも悲壮的にも見立てたこの詩篇の中村の眼差しははっきりと、それでも断ち切ることのできぬ何かを注視している。このようにイメージを汲み続ける中村という人間の不定形な内面はやがて、詩行という絶対的物質による揺るがぬ象徴の中にともかくも押さえ込まれ、有機的に生物的に外側へと結合しつつあるようにこちらには見えてくる。
モーリス・ブランショは、この毎日を「限りのない散乱状態である日常」と呼んだ。散り散りになっているこれらの意義性を摘み上げ、結びつけ、存在させようとする試行が詩作行為であるとするならば、それらが詩として存在することそのものをめぐって、中村はその詩句において常に自問自答を繰りかえしてきたのかもしれない。そして答などない絶対的質問を産出してきたこととなる。この詩篇の部分は印象的である。
漣が囁きかける、樹々が私に囁きかける。
おまえの鬱懐はおまえ自身に由来する、と。
見るものは見られている、見られているから存在する、
存在するものは存在させられている。
(「五月 沼のほとりに」より)
「おまえの鬱懐はおまえ自身に由来する、と」の一行は、世界に存在しているという起点は何より自分自身という、「我思う、ゆえに我あり」(コギトーエルゴースム)の精神真理を直ぐに思わせる。湧き起こる情調は唯一絶対的な存在でありつつも、自分自身という一点が無ければたちまちのうちに消滅してしまうという危なげな、二極分立を抱えつつその両方があり成立し映発している状態を、暗に示しているものではあるまいか。
「存在するものは存在させられている」の詩句はそして、「作品は、何の証拠もなしに存在し、また何の用途もなく存在する」(モーリス・ブランショ)の言を思わせる。「詩は手段とならぬ」と、かつて田村隆一は詩作品「西武園所感」という詩句で、詩は何らかの目的のために作られるものではない、絶対的物質であるとのパッセージを私たちに浴びせていた。「詩というものは、あるいは作品というのは存在である。空間の位置を占めることが重要であり、それでこそ詩は芸術になる。今まで存在しなかったものを一篇の詩によってそこに存在させるわけです」と生前語った。詩作における存在にまつわることについてあくまでもその物質感を優先させようとした点において、「荒地」の代表的存在である田村と、一方において「荒地」派への批判的位置につき戦後詩の流れから距離をとろうしてきた中村とを並べることが間違っているかもしれないが、必ずしもそうとも私には思えないのである。また、田村が敬意を払っていた瀧口修造は「詩は行為である」と言い放ち、「これらの書かれたテクストよりも、書いた行為そのものをいくぶん詩と呼びたい気がするのだが」と語った。こうして考えてみると「十四行詩に執している」中村の行動と通い合うものが随分とあるような心持ちがする。「詩の運動はそれ自体、物質と精神の反抗の現象である」とも瀧口は語ったが、それらが反目し合った形象のみが詩の存在そのものをひき起こすものなのであろうし、中村の詩風もこのアフォリズムに合致している。詩のモードとして抱えていたものは、それぞれ全く別のものであったが、言わば詩の存在そのものにまつわる、詩そのものの抱える絶対性への詩作の真のような所は、必ずしも離反してはいない。
本年の一月に「現代詩手帖」誌で発表された講演録「谷川俊太郎の魅力」にて、ほぼ同世代であると言える谷川の詩にいかに感銘と魅力とを感じ続けてきたかを説明している。気性の違いははっきりしているにせよ、やはり通じ合うところが多分にあることをそれは綴っている。詩における「形」と「存在」とをめぐって谷川は、あるインタビューでこう述べている。
短歌・俳句だと、五七五とか五七五七七という形式があるから、
すごく見えやすいんだけれども、明治以降の口語自由詩は
本当に「形」がなくなっちゃって、何でもありの世界です。
だから言葉の存在感がなくて、その変わり、作者の思想とか、
自己表現とか、恨みつらみの解放とか、そういうものの方が見えてきちゃう。
やはり同じように、ソネットの名手である谷川の、これは口語自由詩への提言ともとれる内容であろう。「存在」にまつわる詩作の感覚を、インタビューで次のように断片的に述べているのも、印象に残る。「ある用途で使い捨てられるような何でもないものが、違う目で見ると、その存在自体がすごいものであって、汲みつくせない深さがある」。
ここの「汲みつくせない深さ」とは、先に引いた中村による中原中也への解説の言「くめどもつきぬ悲しみ」と隣り合うように思えてならない。これらのある「深さ」への到達のために谷川は定型詩形式にその醍醐味を感覚してきたと推察できようが、中村の内側にもそれは色濃いはずである。
形式=存在をめぐる詩句を探しているうちに別の入り口にたどりついたものがある。詩集としては最も新しい「新輯・幻花抄」の「コブシが花ひらくまで」という詩篇より引く。
私は私の傍らにいる者を見ることはない、
私は私の傍らにいる者に触れることはない。
死者ははてしもなく遠い場所にいるのだが、
しかも、死者はいつも私の傍らにいる。
亡妻への哀惜をうたっているという本詩集は、これまで述べてきたものよりも、平明であり哀切である。「「ひと」とは、人が死ぬときに、もっと間近くあらわれるものである」(モーリス・ブランショ)を想起させられるような件である。このことについて、菅野昭正は「不在の生者として「いつも私の傍らにいる」死者、死者として生きている生者という内部の思いに問いかけ呼びかける声部は、数知れぬ死者たちのむらがる遠い他界から響く音域と重なっている」と、ある論考(「中村稔詩集」芸林書房・解説)で、述べている。
ここにあるのは、二元的な時空間の隔たりではない。ならば何であろうか。「死者ははてしもなく遠い場所にいるのだが、/しかも、死者はいつも私の傍らにいる。」の詩句。あたかも死者の抱える遠い次元が、限りなく生者の我の傍らであるかのようなその瞬間を見つめていると、生と死への射程の有無は狂い出し、あるいはそもそも虚偽であると中村に断定されるかのようである。不分明なる遠近を抱えた死者と隣り合っているうちに、むしろ現出してくる曖昧ではっきりとしない、折り目こそが現実的に思われてくる。これはあたかも詩に接するような時にこそ現れる、見えざるものが見えてくる瞬間を語っているのではあるまいか。
モーリス・ブランショの一文における「ひと」の強烈な現出は、正に死への臨界において反照されたかのように色濃く現出する人の何かであるが、それを語ろうとする詩そのものも同様にまた、これら生の反照作用の回路をめぐり、私たちに死と同じクォリティの高い衝撃として迫りくる。ここではもはや、生も死も、そしてそれを歌う詩も絡みつき化合している。
愛する「死者として生きている生者」。死、それそのものが、言わば失われた遠近感覚となって中村の現実に在るからこそ、不明なる生の概念が鮮烈な射程距離を生者に提示する。中村にとってのソネットを初めとする定型詩とは、豊穣なる書かれ止まぬイメージに一つの切断面を与える即興の斧であると同時に、変幻する生と死の遠近感覚を分かつ弛まぬ射程そのものの表象化であると言えまいか。
そうしたものの化成が成され得た時に、生と死、是と否とを超え、美しく詩として現出するものがある。同じ詩集からの詩篇「レンギョウの黄が眼につきささるとき」より。
ナラ、コナラ、ブナの嫩葉のさやぎを聞き、
季節の推移に私の心がさわぐのは、
確実に循環するものへの嫉妬の故であり、
ついに回帰しないものへの悔恨の故である。
レンギョウの群落が私の眼につきささるとき、
美は私との関係において存在する。
死が私たちの生をかぎるから、私たちの生があり、
愛は必ず生と死とを越えるにちがいない。
「私たちの生」を鮮明な有形にしようとするのは、死という余白であるのか。たったいま、「「ひと」とは、人が死ぬときに、もっと間近くあらわれるものである」という言がまた横切った。「死が私たちの生をかぎる」=定型へ。…定型詩に依り続ける、その中村の感受性の原形質のようなものがこの「生と死」、亡妻への「愛」を語った詩句に無意識に鮮烈に立ち現れてくるかのように触れた瞬間に思ったが、それは何故であるか。
「循環への嫉妬」と「回帰しないものへの悔恨」との離反する感情が対峙し一致している場合に生じている情趣。あたかもこれら相対する情動が入り混じり、生と死の概念とがせめぎ合い交錯する時、やはりそのような激しい葛藤の動態にこれらは耐えられる装置であるとして、必然的に中村の内面で採択されてきたということは、明らかである。
定型は韻律からの自由を模索することであるし、自由詩は文脈の獲得であるし、だから韻文を創作するその深奥では内側も外側も無いことは数多くの先人がめぐって、実証してきたことである。依然として巷に詩歌句の鼎立はあり、それらの混成や三者それぞれの積極的な全体的な交流や浸透はまずもって起きないであろうという、不自由な縄張り意識がこれからもある限り、自由詩の存立自体の意味は客観的に提起され得ず、いつまでも内閉的で曖昧なものが依然として残る。
いつしかそれへの検証が訪れる時、中村の定型詩の思想は、普遍的で根源的な詩の核を批評的に若い世代に提示するに相違ない。何より詩業というものが常に包括しなくてはならない言葉の美と魔力とは、時間の堆積とそれを超えるかのようにしてそこにとらわれ得ない自由奔放さとの化学から生起することを気付かせてくれるものとなるはずである。
ともかく現在の私たちはまだ「型」からの離反についてきちんとした論議がなされていない。中村の提示する規律・支配からの詩による定型の矜持は、立ち止まらずに進んできた現代詩の抱える過速度的な時間性への鋭い批評となる。
言葉は私たちの日常の中で変幻する生物に似ている。
言葉は私たちに対象を認識させると同時に、
私たちを対象から隔離する。言葉はつねにある文脈の中に位置し、
文脈は私たちの社会環境、生活圏に規律され、支配される。
そうした文脈の中で、言葉は生まれ、死に、あるいは化石化し、
あるいは新しい息吹をふきこまれて生命をもつ。
私たちの日常の中で、言葉に自己と対象との
新たな関係を発見し、言葉の魔力を引きだすのが、
詩における言葉である。
(中村稔「人間に関する断章」より)
誕生、死滅、再生・新生。私たちはこれまで、「誕生」と「死滅」ばかりを過剰に繰り返してきただけであったのかもしれない。時代と拮抗し合い、それに抗する強度の次元を追い求めたり、それとは逆に絶望し、衰弱していく敗北に浸ったり。そうやって時間や社会との駆け引きに没頭してきたが、その都度、誰が「新しい息吹」と真顔で語っただろうか。新しい時間は黙していても到来する。片時も立ち止まり拘泥することは許されない。そのことへの不安と焦燥は常に在ることはいたしかたないと思うけれど、いつの間にか語り止めてしまっている遠い時間がとても間近に、あるいは広がっている遙かな未来のように、このようにも私たちの眼前に在る。夏は終わったが、中村稔の存在感は、私の中で終わらぬ残暑となり深まった。
初出 「ユリイカ」 2004年
夏の中村稔 うたが揺れやまぬ波打ち際で
和合亮一
和合 亮一(わごう りょういち)
1968年生まれ。
第1詩集「AFTER」で第4回中原中也賞(1999年)、第4詩集「地球頭脳詩篇」で第47回晩翠賞を受賞(2006年)。
読売新聞・日経新聞(夕刊)・ディズニーファミリーサイト等に連載中。
















最近ちょっとだけ驚いたこと
■最近ちょっとだけ驚いたこと。松浦寿輝の単行本が出ていたこと。しかも芥川賞候補になっていたこと。呼び捨てにしたけど大学在学中は表象文化論の先生で、モーリス・ブランショの…