特別企画 吉増剛造氏インタビュー(聞き手和合亮一)
「詩と非・詩との間で」
二〇〇九年七月十一日(土)、東京の「ホテルアイビス六本木」にて吉増剛造氏にインタビューをすることができた。その内容を掲載する。なお、準公開という形で、会場には二十名程度の「ウルトラ」及び「六本木詩人会」関係者が参加し、観覧した。
第1部
和合:よろしくお願いします。今日は全国各地からお越しの方がたくさんいらっしゃいます。遠くは岡山の方から、大阪の方から、静岡の方からということで…、本当に今日はありがとうございます。「六本木詩人会」というものが先月立ち上がりまして、六本木のホテルアイビス、この場所を拠点にさせていただきまして、支配人の加藤哲章さんが…いま後ろにいらっしゃいますが、加藤さんのご好意で、こういう場所を文化の拠点に、そして詩の拠点にしてほしいというふうなことでお借りしています。突如こういうことが始まったというような印象をもたれている方も多いと思うのですけれども、このお話は、実は三年前くらいからありまして、私と加藤さんと内密に打ち合わせと言いながら、お酒を飲んで話が終わってしまい、で、しばらくしてまたお会いしてお酒を飲んで終わってしまうというふうなことで、しばらく時間がたってしまったんですが(笑)、だんだんと昨年の暮れぐらいから、固まってまいりまして、初夏を迎えてようやく始まることができました。
そして今日は、はじめは私どものスタッフでインタビューというふうに考えていたのですが、もし可能であれば、この非公開という形ではありますけれども、スタッフとなにか縁のある方など、もしよろしければ足をお運びくださいというふうに連絡させていただいたところ、二十名くらいの方々が声をあげてくださいました。そして今、ご紹介あったように、大変遠いところからいらっしゃってくださってということで、感謝申し上げたいと思います。これまでいろんなイベントに参加して参りましたが、とてもそういう意味では、暖かい不思議な空間を今、体験しているというふうに思っています。
「六本木詩人会」、そして詩誌「ウルトラ」の会と、これからこういう形で色んなことをやっていきたいと思いますので、ぜひよろしくお願いいたしたいと思います。吉増さん、お忙しいところおいでいただきまして…。
吉増:ん〜。
和合:(笑)あの、一番最初に吉増さんをおよびしたいと、お願いしたところ、快く快諾をしてくださいまして、ありがとうございます。今、現在花巻の方に行かれていらっしゃるご様子ですね?
吉増:え〜、あの、こんにちは。え〜、そうですね。この前、福島、…というより二本松に荒木経惟さんと一緒に呼んでくださって、それでそのときは、春日八郎の歌のあの「別れの一本杉」のところに行きたいと言って、和合さんにしきりにお願いして、そんな感じが残っているのね。それでかな、…縁があって二度ほどこの間、花巻の土澤というところに行って、萬鉄五郎さんという、大変な、あの、かっての前衛画家がいたでしょ?あのひとがとんでもない絵描きだっていうことがわかってきて、そこでこの十月のイベントに参加をするために、そのお手伝いに行っていましてね。土澤は花巻だから、遠野も近いしね。遠野に行って泊まって、それから大沢温泉行って泊まって、だから和合さんやみなさんの福島を通り越しちゃった(笑)。
和合:ははは(笑)。
吉増:それで何度か往復していました。六本木来たのひさしぶりだな〜、防衛庁どこだっけなぁなんて思って、眼はさかんに探してたりして、ちょっとカルチャーショックだよね。「六本木」も「別れの一本杉」や「二本松」や「五木の子守唄」がすきなそんな空気のトーンだったのが、このあたらしい、「六本木」というイメージにこれから乗り替えなきゃいけないと思って、かなり、なんでしょうね、空気の流れを自分の中に作るようにして緊張しています。
和合:あ〜、ありがとうございます。私も、緊張しておりまして、まず吉増剛造さんをご紹介するのを忘れてしまいました(笑)。あらためて、吉増剛造さんです。
吉増:ど〜も。
和合:今日はありがとうございます。
一同:拍手
和合:この「六本木詩人会」、私もあるいはスタッフの方も、はじめてのことばかりなんです…。よろしくお願いいたします。吉増剛造さんを福島など東北にお招きして…。
吉増:うん。
和合:何回かイベントをさせていただいているんですが、ある会が終わってから会津にあるといわれている「別れの一本杉」の場所に吉増さんがぜひ、行ってみたいとのお話だったんですけど、打ち上げの晩がとてもフィーバーされまして…。
吉増:そうだったよねぇ。
和合:吉増さんがですね、お酒を随分召し上がられていたという…。
吉増:うん、興奮してたよね。今日も話題ででるかもしれませんが、『表紙OMOTEGAMI』という、亀岡大助(「現代詩手帖」編集者)さんが作った珍しい書物の一番最後の作品ページに、あのときのイベントで撮った写真が映ってましてね。
和合:はぁ〜。
吉増:だからよく見ると二重三重に写してますから、それは隠されてはいるのだけれども、まぁ、だから証拠を隠そうとするようなそういう行為もあるというようなことも、今、しゃべりながらわかってきますけれど、そういう興奮と驚きを覚えていますね。
和合:そうですか。
吉増:なぜなんだろうなぁ。まぁ、もちろん、春日八郎の「別れの一本杉」は好きで、美空ひばりや三橋美智也さんたちが歌ってるのをいつも聞いていますけれどね。それと、それからみちのく東北性、あるいは遠野みたいなところ、それにこだわっていたのが、今度は少し、外国の方のケルトのとかブルターニュとか、そうしたところと二重三重にかぶり始めてきているのね。そうしたもののかぶり方があります。で、今、花巻でもずーと書きついでいて、書けなくて、それでもあんまり心配もしないで書きついでいるのですが、石牟礼道子さんという人の文章を、ゆっくり急がずに旅をしながら読んでいましてね、もうそろそろ石牟礼さんの、「水俣」という地名もそうだし、「五本木」という名前もでてくるしね、「五木」も出てくるし、そうした我々が地名で覚えているようなものが、ちょっとそろそろ変質してきたなぁって感じがしてね。
和合:変質してきた?
吉増:少し、その、今石牟礼さんについて(書いている文章が)、一行で四、五日止まっちゃってますけどね、そういう、時の泡だちが、時折、止まってしまうようなものを書きながら、花巻、遠野、和合さんの福島あたりを何度も通過していました。
和合:そうですか。
吉増:なんかがどこかに、戸口が開いているような感じがしていたのね。
和合:戸口が開いているような感じ…。今うかがっていると、「一行でとまっている」というお話もあったんですけれど、今現在、そうすると、なにか製作をされているというふうなことになるんでしょうか。花巻の方で。
吉増:そう、そう、…。あのこんなふうなところにお話を持って行っちゃってごめんなさいね。
和合:いえいえ。
吉増:詩を綴られる方々は、まぁ、造形作品もやられるし、音楽の表現もされるし、いろんなことをなさる方が多くて、それが詩の隠された面ですけれども、僕も、映像作品っていうのかなぁ、こう裏側から映画館へ入っていくようなそんなドロボーみたいな行為が始まってしまって、…、それを目にとめられた方々(菅沼緑さん、平澤広さん、水沢勉さん、…)が、まちかど美術館で、土澤に小さな風が、あなた起こせませんか、とそういうご依頼があって、それで出かけていって、出逢いがありました。みなさん覚えてらっしゃるでしょう、萬鉄五郎の芸大卒業したときの、「裸体美人」っていう有名な作品。あの草の上にね、女の人がね、あの作品、ああいう作品を経過して、ひとつ多分、あの「シネ」の作品ができましたけどね、そんなことをやっています。
和合:ああ、映像作品ですか。
吉増:うん。「萬」です。びっくりしちゃったんだけど、萬は、すごい写真とってんですよ。自分の若い奥さんを裸にして畳の上に寝せてとってたりしててね(笑)。
和合:(笑)。
吉増:とんでもないことやってんですよ。まるでアラーキーみたい。まぁ、そんな話は…。
和合:いや、あの映像作品を今、製作されているというふうなお話で、そちらの方に大変話題になっております『キセキ』という映像作品を、私のパソコン、あのこれ買ったばかりで自慢したいという気持ちもありまして、今、そこで流させていただいておるんですけれども(会場のパソコン画面で『キセキ』のDVDを上映している画面を指して)。大変に昨年より話題になっていて、現在私は書斎でこれを拝見しながら、作品を書いたりして…、今、すごく楽しい時間を過ごしているんですね。吉増さんが詩を書くということを少し休みますというようなお話しをされていらっしゃったときに、ちょうど私とか、今日会場にいらしている方何人かが、その場面に遭遇しているんですけれども…。
渋谷でイベントをしたときに吉増さんが、「詩を書くことを休みます」というお話しをされました。そのときに私は、吉増さんという存在が自分の中ではとても大きいものですから、ショックだったんですね。ただ断筆というわけではなくて、休むというお話でしたが…。いろんな場所でお話しをされていると思うんですけれども、お休みをしたということで、吉増さんにどのような時間がもたらされたのかということを、まず、おうかがいしたいと思います。
吉増:あー、嬉しいときと出逢ったなあ。こういう話をさせていただくことができることが、なんか宝物のように思いますけれど。あのときは山内(功一郎)さんが力を尽くされたのですが、マイケル・パーマーが来て、とてもいい会が、三軒茶屋でね、世田谷のなんとかシアターでね。
和合:あ、渋谷じゃありませんでした。世田谷パブリックシアターでしたね。
吉増:そうそう。サンチャだ。そこで、やりましたときに、たまたまその、今日も持ってきていますけれどね、北海道の札幌で、札幌大学に集中講義に行っていたときに山口昌男さんのお弟子さんで、学者にはならなくて、古本屋さんをはじめた学生さんがおられてね、それ見てて、純心でなんとも健気な…本の好きな吉成秀夫さんって若い方です。今福龍太さんがはじめた「奄美自由大学」でも、加計呂麻の砂浜で、寝袋でねてたなあ。網走南ヶ丘の高校出身でね。なんかね、ガッコーの外(そと)に、砂場をつくったんだな、…。一緒にね。よしじゃあ、あなた創造的な雑誌をつくって、古書の通信をだして、僕も手伝うからやってみない?って言ったの。
知里真志保さんに『地名アイヌ語小辞典』っていう素晴らしい本があるんですが、その中心のページの写真、まぁ写真集でもあるんだなあれは…「アフンルパル」っていうあの世への入り口っていうのが(アイヌの方々の聖域として)あるんですけどね。そこへ、僕はずいぶんこだわっていて『螺旋歌』なんかのときにもそこに行って、で、その彼に、「アフンルパル通信」はどう?という提案をたしかそのときはスコットランドにいました。それで版型を、これは瀧口修造さんの『余白に書く』(初版)のまねなんだけどね、瀧口さんはもしかすると与謝野晶子の『みだれ髪』のまねしてるのかもしれない。 『みだれ髪』もこういう形、いま珍しいでしょ、昔はこういう細長い縦長のもあったんですよね。
それで、その第一号にブラジルからの帰りの飛行機の中で作品ひとつ一所懸命に詩をかいて吉成さんに送ったんですね。それで、この雑誌がスタートした。だから同人雑誌でもないし、しかも札幌の出版活動が始まっていくというね、そういうなにかね、とってもなんかこう、はずみがあってね、めずらしい、その写真、さらにね、この人(吉成さん)には、写真や映像の才能があることもわかってきてね、天才的な才能が。それがちゃんと育ってきています。そこに詩を書いたのが、なにかひとつの夢の成就だと思ったんだね。それとマイケル・パーマーさんの詩に触れたというすばらしさもあったけれどね。山内(功一郎)さんのああいう翻訳の大切なお仕事もあってね。だから一つの結節点だと思って、その詩を読むときに、もうここで手を止めてもいいなぁということを、口にしていて自分も驚いたんですけれど、ふっと言っちゃったの。水納あきら(宮古島出身の詩人で「オリジナル企画」という版元をユメとしていた…)が言わせたのかなあー。それがひとつのあれでした。いま「アフンルパル通信」は八号目で、たくさんもらったから、これみなさんに差し上げますね。そういう不思議な関係…。皆さんと同じように、色んな接触点で表現も回路を求めていきますけれど、表現のドアを開いていく、『ドラムカン』や『凶区』の人たちと同じように、昔から映画好きだったし、「シネ」っていう雑誌までつくったんですよ。天沢退二郎さんや渡辺武信さんといっしょにね。「シネ」をつくりはじめて、その雑誌の記憶があるんだな。「シネ」をつくりはじめて、それで『キセキ』っていうDVDをだして、それでそのあと更に二十本ぐらいつくっちゃって。
和合:さらにですか。
吉増:さらにつくっちゃった。
和合:なるほど…。
吉増:それで、どこに発表していいのかわからないようなものが、どんどんできていて、これからまた芭蕉の『奥の細道』をおいかけますけどね。その…紀行文とかロードとか、まあ民俗学もそういう傾向があるだけれど、そういうものを映像作品によってトレースしていくことが可能だという感触を完全に掴んだんです。それで、ついこのあいだね、今出ている「すばる」っていう雑誌で唐十郎さんと対談しているんですけれどね、唐さんとこの一年近く、とっても接近して、空気をともにして、それで四十年ぶりに赤テントの中、真ん中の穴みたいな中に飛び込んで、それで唐十郎さんとちょっと裸の接触がはじまったときに、その唐さんとの対話を山の上ホテルでやったんですね。山の上ホテルでやってるときに、まさか「シネ」はまわさないだろうなと思っててもね、僕、荷物いっぱい持っていく人でね。なんかいつも用意している人で、夜逃げのように(笑)いろんな雑物もって、まあ、疎開っ子だから、もって歩くんですよね。それは、(ジョナス・)メカスもそうです。あの人もナチスに追われて、逃げるときにいっぱいものを持って逃げて「捨てた書物があって悲しかった」なんていってましたけどね、でも捨てない人。僕も、捨てないんだ。持って歩くんだ。で、いろいろ持って歩くときに、山の上ホテルって山の上にあるじゃない?
で、神保町の裏道から登っていったときに、ちょうど夕暮れで六時半から座談がスタートだったかな、裏道を登っていったら雨が降ってきて、カメラも一応、念のため、持ってって、撮影の準備していたのね、裏山を登っていって、それで、まぁ重いし、くたびれちゃって、ときどき立ち止まって、それで、黄昏れ時のいーい感じのときでしょう? そんとき、ふっと魔がさしたようにしてカメラをまわしはじめたの、山の上のホテル撮ってね。そしたらとまらなくてそのまんま、山の上ホテルの対談の会場まですーっとそのまんま入っていって、写真撮されている唐さんの姿まで撮っちゃって、でそこで、今、今日もまわしていますけれどテープレコーダーをまわして、そして対談が終わって、いまそれが「すばる」に載っています。そして次の日に青山ブックセンターで今福龍太さんと対話しなきゃいけなくて…次の次の日か、それで、その次の日に、このテープをまわしながら、実は『アーキペラゴ』(岩波書店)刊行記念のトークのとき、三年前の今福龍太さんとの青山ブックセンターでの対話のときに「シネ」を造っていくということが始まりましたから、…、これは『島ノ唄』の続きで…『島ノ唄』っていう映画ができて、その『島ノ唄』にでている奴が、こいつ、僕が、大嫌いで、あいつ(僕のこと…)が自分でまわしゃいいんじゃないかって思って、それで「シネ」がはじまったんですね。それから三年で四十本撮って、そしてその今福龍太さんの新しい本の記念のために、よし、龍太さんも「シネ」一本つくってきてなんていわれてたから、次の日のために、唐さんを撮った映像からはじめていって、唐さんとの対面のテープを流しながら、はじまりの、三年前の「シネ」のはじまりの羽村市のまいまいず井戸に行こうとしました。すると横田基地を通っていかなくてはいけない。横田基地へもう一回。そしたらね、テープから聞こえてくる声と、こちらから出て行く空気みたいなのが、交じり合って、「え〜…。横田基地のところへガンジス川が流れていてもよかったんだ…。」という言葉が自分の中から出てきたの。僕はそんな過激な政治青年じゃなかったから、まさかその、基地の子だしね、「ここが、横田基地がガンジス川であってもよかったじゃないか、なんでこんなとこ、居座っているんだ」なんて、そういう過激なこと言うはずがなかったんですよ。そういう言葉が出てきちゃって、それが出てきて、そしてまいまいず井戸に行って、そのときはもう決めてたんだね、フィルム燃やしてやろうと思って、まぁ、今はね、外で火をつけるってちょっと大変ですからね(笑)。
和合:そうですね(笑)。
吉増:でしょ?しかもフィルムに火をつけるってけっこう大変だけども、瞬間火をつけて、最後にそれを撮って終わって、それを次の日に、青山ブックセンターで龍太さんたちに見せたのね。それで見せたと同時に、そのときにふっと、ああ、これで「シネ」は終わりだぁって言ったの。
だからね、その前に「詩」はもうとまるかもしれないって言ったのと同時に、そのときに僕は、「シネ」は終わりますねぇって言ったの。その瞬間にわかったんだけど、その、今度はそれ、その「終わり」と言ったときに、詩がはじまった。それを詩にしました。
そして亀岡さんに言われていた「アンケート」を、私はしない主義だから、どうにかしようって思っていたときに、すーーっとその、終わったなにかがとまったというところで、ちがうものがスタートしたことが、その瞬間にわかった。これからが答えですけれどね。その間、「冬眠」してたんだ、詩を「冬眠」させたんだ。僕自身にもわからなかった、「詩」が、「詩」が「冬眠状態」に入っていたっていうのが。その「冬眠状態」が終わって、熊がのそのそ出てきて、はじめてそれに気がつくようにして、そんなふうにして、違う表現の回路が終わったときに、また「詩」に戻ってくるっていうことが起きていました。
それが、今日、お話できて嬉しいです。そんなふうにして、なんかそういうことってあるんですね。そういう力動を自分でつくりだすことは到底ね、できない相談なのだけれども、おそらく、ジャンルの扉がいくつもあったら、これからは、おそらくみなさんが、そういうこう、そうした精神的な「否定の力」みたいなものとか、「よし今度は違うほうへ!」という力を、そういう力動を意識化できるときが来てるんじゃないかしら。まぁ自分ではそういうことを経験して、そう思いました。
和合:あぁ〜。
吉増:ちょっと長くしゃべりすぎちゃってごめんなさいね。
和合:なんか、あの思わず、うっとりしてしまいました。恍惚とした気持ちにすら、なってしまいましたけれども、今、この「詩がはじまる」というのは、じゃあ、ここでお話したのが、もうはじめてぐらいの。
吉増:そうですね。
和合:はぁ〜。みなさん、地元に帰って、ぜひ、このことを…、ホテルアイビスで「詩がはじまる」というお話を今吉増さんがされたということみんなに伝えてください(笑)。
詩を休みますということを実際、世田谷パブリックシアターでうかがったときにも、すごくこう、なんかざわっとするようなですね、鳥肌が立つような感触を、持ったんですね。それで、今現在、これで「『シネ』が終わった」って聞いた瞬間に今僕のポケットの中で、携帯がブルブルとバイブレーションのモードにしていたのですが、動いたんですよね、今、ここで。詩の神様がかけてきたのかな〜って思ったくらいです(笑)。
一同:(笑)。
和合:今、鳥肌が立ちました。開けてみたら、全然なんともない相手かもしれませんけれども、非常に恍惚とした気持ちになりました。
吉増:和合さんがお話になっているときにひとつ気付きました、……。みなさんも作品を書かれるときに、そういうことが身体についてらっしゃると思いますけれども、小説や他のジャンルのものの作品を書くときと少し違って、詩を書かれるときに書き出すと、だいたいこれは何行くらいの作品になるかって、あたりがつくものでしょ?なんか終わりが見えるっていうかねぇ。そういう感じっていうのは常にあって、だから詩を書き出して、一編の作品にもそれは言えるけれども、詩を書きつづけてきて、なんかずっと終わらないっていうのはおかしいので、どっかで、「そこで終えてみろよ」って声がちょっと聞こえたのかもしれない。和合さんの携帯みたいにして。今になると思うとね、そういうことってあるのかもしれないと思いますよね。
和合:その前の詩集で、今お話に出ていた『表紙』あるいは『ごろごろ』『The Other Voice』などのいろいろな詩集…、詩をお休みになる前に出されていた詩集を拝見していくと、どんどんとこれまで書かれてきた詩が、ある意味詩というフォルムを本当に離れていって、そしてこれは九〇年代の終わりくらいからなんだと思うのですけれど、吉増さんのインタビューの中にですね、例えば「詩の雑草という、詩の繊維という、そういうところへ分けいって行きたい」って、そういうお話があったり、この『ごろごろ』を書かれたときに、ご本人が書かれたと思うんですけれども、「詩篇のもっと深いところからごろごろが響いてきて、心を恐れさせる」というふうな解説があったり、あるいは、これも『ごろごろ』の中の詩の言葉ですが、「中間とさえ読めないあいまいさの中に外部がある」というような、添えられた文章の中に、小さな文字の中に、そういうものがあったりしていたわけなんですけれども、これらの『ごろごろ』や『表紙』というのは、私も拝見して、書評をですね、読売新聞の方に書かせていただいたんですが、もはやもう詩というテキストが書かれていない、それでいながら、詩に追われているような、詩を追いかけているような、そういう詩集だというふうに感じまして、「詩が書かれていない詩集」というふうに書かせていただいたんですけれども…、スゴサというのを逆に感じたんですね。まぁモチーフといってしまうと非常に固いお話になってしまうんですけども、どんな形で生まれたのかというのをお伺いしたいと思うのですが…。
吉増:えーと、こういう機会だから、こんなことがお話できるのは、これも嬉しいことだなぁと呟いて、お話するんですけど。僕はとにかく才能のない人で…、詩が書けない人なんですよ。その、今はもう七十歳をすぎたから、こう手の方が書いてくれるように、少しなってはきましたけれど、昔からもう、ボールペンの、BICのボールペンで、筆圧をものすごくかけて、一行書くのに十日も二週間もかかりましてね。絶望して、最初の一行が書けなくて、だからそれはもう絶望して、「詩」なんか嫌いになりますよね。それに、だいたいがその、中原中也のとか、そういう人が好きで入ってきた人間じゃないし、「詩」があんまり好きじゃないのね、僕は(笑)。
和合:ははは(笑)。
吉増:それで「詩集」だなんてもっと…あの、ごめんなさい、こんなこと言ってね。だからあの、詩集を三万円出して、買い取りのタイプオフでさ、いやいや出して、出来たのをつまんで振ったら、ページがさ、ぼろぼろ落ちるような詩集を出したのが、『出発』(一九六四年)っていう詩集でね。そのときはT・S・エリオットの詩集なんか持ってってさ、こんなふうに作ってくれっていったんですが。それからあとはね、自分で詩集を出したいと思ったことなかったね。
和合:はぁ〜、なるほど。
吉増:それでしかも、僕の書く詩なんてさ……ことほどさように破れて、さかさまになって落っこちるような、郵便箱かなんか、ポストの中へ叩き落されるような、そういうような崖っぷちみたいなこと書いてるわけでしょう? だから「詩集」っていうのは、最初から念頭にないような書き方をしていて、だから例えば、『螺旋歌』とか『オシリス、石ノ神』なんかもそうですけれども、だいたい『オシリス、石ノ神』なんていうのは、「現代風景論」っていう、散文の注文だったわけですよ。その散文がたまっちゃって本にしようってわけでしょ? そうすると山にこもってそれを…この溶鉱炉にいれるようにして、錬金術みたいなふうにして、もうめーちゃめちゃにやって、校正して、詩のような格好をつくるわけですよ。『オシリス、石ノ神』なんかそうですよ。それを僕はよく知ってるから、これ「詩集」じゃないってのは、知ってます。たまに一個くらいなんかこう「文芸春秋」かなんか、「窓」みたいな詩で、詩らしくやったのは一個二個ありますけどね。次の『螺旋歌』なんていうのも、あるとき北海道の雪の中で「文学界」の湯川豊さんって編集長がきてて、吉増さん、紀行文を一〇〇枚くらいどうですか、はい、やります。そりゃお金欲しいからやりますよね、それでやったら、なんか変なものになっていくわけですよ。それでとまらなくなって、とまらなくなって、その散文形式のものが集まってきて、なんか途方もないテキストができてきて、だからまぁいいや、講演までいれてしまえというような、そこに「編集者の魂」があるんですよね。もうひとつ。これが新しい詩集になるであろう、こいつに火をつけて、けつひっぱたけば(笑)なにかになるんだろう、と、そういう光が、その編集者の、これまぁ樋口良澄ですけれどね、両方とも。それで、そういうところに追い込まれていって、もう塗炭の苦しみの中からでてきたのが、ああいう本です。だから「詩集」っていう感じがしない。だからね、綺麗な詩を集めて「詩集」になるっていう通念があるでしょ? それとは全く逆ですね、僕の場合はね。だからちょっと、異様な……感じですよね。
和合:確かにこの『ごろごろ』『表紙』を拝見したときに、本当にこれまでの吉増さんの常に斬新なお仕事の一線上には必ずあるというふうには思っていたんですが…。しかし、今、うかがってみると、この『螺旋歌』と同じ成り立ち方が、やはりあるということなんですね。
吉増:そうね。この場合は、それが更に、あの確信犯的になってきていて、これは「現代詩手帖」の表紙(ひょうし)を亀岡(大助)さんと一緒にやってて、で毎回、写真をとって、あぁ〜、もう実に夢みたいに名誉なことで、もう懸命になって写真を撮るし、短い文章も書きましたよね。非常に一所懸命、こんな夢みたいな恵まれたことがでてくるなんてと思って、だからそれがやれたことだけで、僕、この書き手とか撮り手は満足!その次の段階で、これを本にするときもね、そのときは、なんていうのかな、まる投げなんて言い方をしたけれども、その亀岡さんと、それから校正をやったその前段階で、『アイルランド』(『In between 11 吉増剛造 アイルランド』のこと)っていう写真集があって、日記をやっぱりまる投げして、その楠本亜紀さんに全部読んでもらって、引き出してもらった。その楠本さんと装丁の中島浩さん、お三人に全部あけわたしちゃって、それがだからか、一種のこう自分で「詩集」をつくろうなんて気持ちのないやつの心がそこまでたどり着いて、そこであけわたしたんだね、そしてあけわたした結果がこうです。その直感がなかったといえば、嘘になるけどね。多分、そういういいものができるはずだ、という。まぁ、僕も編集者だった経験もあるけれども、そういう力動が働いています。最後にはまぁ、詩を書きましたけどね、冒頭の詩を。
和合:やはり詩集の概念、書物の概念というもの自体を問いかけるというふうな、そういう発想の仕方で、書物の成り立ちにあえて踏みとどまって書物であろうとするような、そういう危うい成り立ちかたを、特にこの『表紙』には感じるんです。詩は一六九ページが好きなんですけれど、あの私の名前が書いてあるので(笑)。
一同:(笑)。
和合:こういう成り立ち方に、非常に私は驚きを覚えたのですが、しかし流通するのは「詩集」という形で、流通するわけですよね。新しい書物性のようなものが、一つの吉増剛造を別の角度からまた形として、作りあげているというふうに感じます。それと同じように例えば、特に近年、写真、映像の仕事が…、花巻で現在制作中だというお話しなどもさきほどうかがったんですけれども…、二重露光写真というふうにいえばいいんでしょうか、その写真のお仕事とか、それと今、DVDでずっと流しておりますが、あの『キセキ』におさめられている映像のお仕事などについて、例えば作家古川日出男さんは私の出身の隣町のようなところの、郡山ご出身でいらっしゃるのですが…。
吉増:ホントだねぇ。
和合:古川日出男さんと昨年お会いして対談をさせていただきまして、そのときに、吉増さんの映像作品に非常にインスパイアされているということを熱心にお話されていらっしゃいました。あと「詩集」は二人で何が一番好きかと話をして、古川日出男さんが、『聖家族』という大作を書き上げられたんですけれども、その下敷きがどこか『螺旋歌』にその一つがあるのかもしれないというふうな話をされていたんですね。『螺旋歌』。今うかがってみますと紀行の、旅の過程をたどったものであるとお聞きしたんですが、それは最近では「表紙」の趣に通ずると思われますが…、紀行文ということと、写真ということ…、『キセキ』に収められている映像など…、どんなことを感じながら、向き合ってお作りになられてこられたのでしょうか。
吉増:和合さんが、古川さんの感じを例に出されたせいか、それからいまそこ(DVD映像の画面)に、ピンチハンガーが映ったせいもあるんですけれども、ひとつの動力みたいなものに気がついていました…。
僕は本当に綺麗にその詩を書く方とは、全然違うところから入ってきた闖入者だっていう意識がはっきりとありまして、とてもその子供がそういうことやるのに似てるんですけれども、書く文字のそばに書き傷をつくるっていうかなぁ〜、揺れを造ったりね、濁点をうったりするのが好きだしね。点うったりするのも好きだし、まぁその綺麗に言えば、中原中也のいうような「言語の名辞以前の世界」、あるいは「言語以前の世界」、そういうものにとってもその、惹かれるたちで、そこでスジは完全に引けましてね。昔はとにかく斜めうちのこうエクスクラメーションマークを連発しまして、ずいぶんひんしゅくを買いました(笑)。
和合:(笑)。
吉増:だから綺麗に詩を書く方というのはああいう符号を決して使っちゃいけない、点や丸をうってはいけないというのが、綺麗な…三好達治さんとか丸山豊さんとかそういう人たち、まぁ谷川(俊太郎)さんもそうだなぁ、そういう綺麗な詩を書く人たちのやっぱり黄金律ですよね。それをねぇ、僕は、本能的にそれがダメなの。それで、斜めうち、斜めうちのエクスクラメーションマークを身体でうっちゃって、それを目つぶってポストに入れて、そして雑誌がきたら自分でも見られなくて、そのページ糊付けして(笑)。
和合:(笑)。
吉増:隠して、ようやっと読めるようなそういう経験を経てきて、そうしていくうちに、いろんなふうにとばしますけどね、『螺旋歌』っていうのを書いたときに、そのそうした、『螺旋歌』の前に『熱風』っていうのを書いたときにね。
和合:はい。
吉増:とばしていくために、まぁこうやって文字を動かしたりなんかする、これはまぁ、漢文の訓読みたいなものに淵源があるんですけどね、そうやって動かしていくときに、折口信夫との接触があって、僕は、折口さんのほかの深いところよりも、あの人のひっぱるね、点だとか線だとかね、カッコももちろんそうですけどね、そういうこう言語以前のなんか、とってもマジカルな感覚が好きなのね。で、あの線をひっぱってきて、盗んできて、さっと入れて…みたいな、そういうことやった。
それから『螺旋歌』のときには、これは自分で考えたんですけど、カッコの中に点、点、点、点と三字ぶんくらい入れてみて、容器を造ってみたのね。点の容れものをね。最初は自分でもわからなかった。なにやってんだろって、だけども点のうごきがとまらない、おそらく内部の言語以前のなにかを見る目がとまらなくて、それが本能的に、それが中心になっていった。なにかの構造が向こうから語りかけてきたんですよね、カッコの中に、点、点、点、というか、それが間違いなく、あの作品のなにかを、動かしています。
で、それは近年でも一貫して変わらなくて、ものすごく評判悪くて、誰も読んでくれないんだけど、『ごろごろ』って作品は、その吃音という以上に、全部に…その、ハングルも入れているけれど、全部にその小さな「ッ」や「ル」っていう撥音のこう、呼吸とか、気合いみたいなもの、呼吸の火みたいなものをそこに入れてんのね、必ずそういうふうにして、まぁ、キレイごといえば、その詩の中に、自分で自分なりの呼吸を作り出さないと、一国語とか言語の呪縛は…ね、突破できないっていう、そういうこともあるんでしょうけれども、ずっとそうしたことをしてきて、それが少しずつ今みたいに、言語化ができるようになってきました。
和合:カッコの中に点、点、点…。例えば『螺旋歌』を読んでいると、とても目にとまる部分なんですが、それを〈中心〉とみなすというお話しを今、されていらっしゃったのでしょうか。
吉増:う〜ん。
和合:中心のようになっているというか…。吉増:中心というとちょっと語弊があるかなぁ〜、う〜ん、でも中心というふうに言っちゃいけないのかな〜(しばし天を仰ぐ)。
和合:吉増さんが、詩集『出発』の刊行の三年後にですね、「中心志向、その他」という散文を書かれていらっしゃいます。そこに「中心を考える、考えることの不能な中心を巡って、なおも中心を考えようとする思考が存在する」というふうな一節があるんです。私は五冊目の詩集が『入道雲 入道雲 入道雲』というくどいタイトルの詩集だったんですけれども(笑)、これはやはり、『螺旋歌』と『熱風』が、自分の中に下敷きとしてありました。それを古川日出男さんは対談の席で、僕が言う前にもう「これは『螺旋歌』の世界ですよね」っておっしゃってくださったんですね。とても驚きました。この長篇詩を書いている時にしきりに考えていたのが、実は〈中心志向〉という概念だったんです。
吉増:そうか…。やっぱり話してみるっていうのは面白いですね。こうして聞いている間に考えていたら、ちゃんとビジョンが浮かんでくるのね。あれはね、『螺旋…』っていうのは、ようやっと「シネ」なんかにつくって、「シネ」なんかをつくることによって、ようやっとそのビジョンが明らかになってきたけども、渦巻きなのね。特にね、水の渦なんだ。
まぁ、もちろん台風みたいなものも好きだけど、その、それに向かって降りていく、まぁもちろん、僕もエドガー・アラン・ポーの「メールシュトレームの大渦巻」が大好きだし、ああいう、もう詩なんかも超えちゃっているような、途方もないビジョンみたいなもの、そこへこう降りていくっていうかなぁ、それは誰でもその生命的なものだとか、なんか哲学的なものみたいなもの、中心みたいなものじゃないですか、それが『螺旋…』のあれですね、まちがいない、「螺旋」ですね。
和合:水の渦の印象。
吉増:そう。
和合:それが言葉で…。
吉増:そうそう。だから、あのさっきも言いましたけれども『アフンルパル』という、あれも、おそらく一種の内臓空間みたいなものですよね。まぁ、あれも『伊達のまいまいず井戸』なんて言い方をする方もいらっしゃいます。あそこでおそらくクジラを葬ったりなんか、アイヌのかたがたがやった聖地だったと思うんですよね、そこに内臓模型みたいな、すごいランドアートをつくって、あそこからその巨大な海獣の魂を海の方へ戻してやるという、そういうすさまじいビジョンがあったらしいね。それはまぁ、十年二十年かかって勉強してようやっとそこへいくんだけれども、沖縄の「カー(沖縄では泉井のことを「カー」と呼ぶ。古い泉井は神聖視され、集落の中で重要な拝所として守られている)」なんかに下りていくときに、まぁ、沖縄のおばあちゃんたちの海底世界なんかもそうですけどね、ああしたところへやっぱり、どうでも降りていきたい、まぁ、ダンテの『神曲』だってそうだよな、そういうことをなんか、能力はないなりに、夢としてはものすごく強く持ち続けていますね、それがああいう、こう、映像にもなってくるという、だから表現ジャンルを変えるとかね、影響するとかそんなことじゃなくて、やっぱりもう、こう命のすぐそばにあるような夢、夢の実現に向かって、ジリジリジリジリ歩いているだけなのね、きっとね。だから、それがさっき『螺旋歌』の“点点点…”が中心だって言って、僕は言い間違えたかなぁと思っていたけれども、そうしたあの、空白みたいな、虚無みたいな、そういうところへ向かって降りていく運動っていうのは一貫しているのだと思います。
和合:中心の渦は空白である、それは例えば…。
吉増:なんかね。
和合:伺っていて、例えばその歩行というふうなお話も今、出ていまして…、例えば六〇年代の吉増剛造はまさに疾走の詩人だったんですよね。それから歩行に変わってきた…。七〇年代八〇年代によくモチーフとして出てくるのが、川のイメージですよね…、川のイメージが、例えば水というところになんとなく僕自身結びついているのか考えたりしたんですが…。もうひとつ、私うかがってみたかったのが、例えばやはり映像作品『キセキ』を拝見していると、吉増さんの語っている言葉の中に、よく「心の目」とかですね、あるいはこれはカリフォルニアの映像を収めた「柳田さんの宝貝」という作品の中で、「僕の目でなく、第四、第五の地中の目を探している」というお言葉があるんですね…。その「地中の目」という「第四、第五の地中の目」というのは、どこか自分の見る冷徹な眼差しというものを超えた言い方のように受け取ったりしたんですが。
吉増:でも幸いにして、その…神の目とか、そういうもんじゃなくて、もっと、今も持ってきているけども、その柳田さんが終生たもとに入れてた、これはすぐ傍にいらした鎌田久子さんの証言だから確かだと思うけれども、宝貝(宝貝の標本を出す)…まぁ、『海上の道』の核心には、「宝貝」がありますよね。で、僕も宝貝を…、まぁ、柳田国男の謎を解こうと思って、と同時にこの貝、それ自体の持っている魅力に、やっぱりどっかでとりつかれているところがあって…。
貝…。この貝の形も、ほんのちょっと見方を変えると、これが「目」であるかもしれないし、でこの中に、貝の形みたいな目を書きますものね。この辺、なにか、こう、こうした太古からの人たちが見ていた、オハジキや勾玉のような太古からの女の人たちの指先もね、見ていたような、そうした目を捕まえて、今、和合さんがおっしゃったように、いくつもの目っていう言い方をしているんでしょうね。
和合:その目というのは、やはり例えば、なにかを感じ取る…、たとえば身体感覚の目ではなくて、やはり感受性のなにかアンテナのような…。
吉増:そうですね、それと同時に、少し僕も勉強するからジョルジュ・バタイユなんかが、今福龍太に教わったんだけど、このこういう(肉眼の)目じゃなくて、本当はもうひとつ器官があって、ここ(頭の奥…)に目、である可能性もあった、第三眼みたいなね、そういう言い方するじゃないですか。
和合:はい。
吉増:我々の感受性の中にもそういうものありますもんね。そのまぁ僕も、盲目の目、盲目のラジカリズムなんて悪口言われるけども、そういう普通言う、こういう、こう科学的な目とか、裸眼みたいなものとは別に、無数に目があるっていうのは、別にそのアニミズムじゃなくて、それは、もともと僕もそれを感じているほうですね。それはネルヴァルなんかもそうだし、そういう方々がずいぶん、表現者になっている人もね多いよね。
和合:映像を拝見していますと、本当に画面がですね…、画面が震えるようなですね…、『キセキ』というタイトルは、こういうカメラの撮り方の名でもあるというふうなお話だったと思うんですが…、この震える画面をずっと見ていますと、過去と未来と現在というのが三位一体になるようなですね…、それで、〈いま・ここ〉への批評をすごく孕んでいる、そういう映像空間だなというふうに感じられて…、渦に引き込まれていくんです。最後には「ありがとうございました」って、吉増さんのお言葉が入るんです。続けて「これで終わります」って言葉があるんですよね…。拝見した方はわかると思うんですけど…、しかし絶対に映像は終わらないんです。続いていく。
吉増:終わらないんですね(笑)。
和合:そうなんですよね(笑)。
吉増:「ありがとうございます」ここで終わりですってところがはじまりなんだものね。で、さっき言った作品のはじまりというものが終わりの一種の否定力…というか転移の力として働く、なんか止めるとはじまるっていうね、人間精神の不思議な力動ですよね、それは。それは詩でもなんでもそうだけども、必ずそうですよね。
和合:「ありがとうございました」「これで終わります」っておっしゃって、その後またはじまるというところが、これが吉増さんの今日お話をされていた、「はじめとおわりの結節点」のようなものなんでしょうか。
吉増:そうでしょうね。あれは、でも「シネ」をつくることによって、それに気がつきましたね、はっきりと。はっきりとそれを意識化できたなぁ。自分でもばかだよなぁと思うけども、あの「これで終わります」っていうと、むらむらっと次が撮りたくなるの。
和合:それが、〈心の目〉のはじまりなのかなあなんて思ったり…、別の眼差し、別のテンションがここで加わってくるような…。
吉増:それから皆さんも、お声に出して「朗読」をなさる方もいらっしゃると思いますけども、僕も六〇年代の後半から、ジャズの非常に激しいところへ引き出されて、で、僕の声も引き出されて、自分でやりたいというよりもね…、僕は自閉症ですからね、その…やりたいという気持ちはもともとなかった。引き出されていって、それで何十年かやってきて、その引き出され方が、このカメラの側面に沿って声が引き出されていくのよね、それがその手のひらに乗ったようにして声が出ていくの、その声もこっちで聞きますからね、するとそのメカニカルに、変なふうに揺れてるものと、それから水の中で見ているような、奇跡的な状態と自分が出した、差し出した声がすごいくっついているような状態を、すぐそばで観察できる、もうひとつの目が生じるのよね。そこで、今度はデュアルウォークが生じて、そこを場にして、なんか表現がはじまるってくるのね。それは、けっこうできますよ。
それはだから、まぁ、産業としての映画の悪口言うと、共同制作にしちゃって、そういう場をなくしているのじゃないの。ところが紙を前にしての「詩作」っていうのは、そういうものの連続ですからね。それは、だからやっぱり、一枚の紙の上で、持つ夢と幻想から、やっぱりこういう状態が出てきてますね、ゆらしてみたり、破いてみたりってのはね…。
和合:よく終わった後にですね…、「どうぞ一度おいでください」という言葉があったりするのですが、これは被写体への…。
吉増:ははは(笑)。一種の観光映画で、なんかわりあい僕はリップサービスっていうのかな、こう丁寧なふりをしてるのね、怖がりだから、そういう丁寧にして、こうサービスして、それをこう楽しんでいるようなとこがあるのね。それは、道化の精神っていうかな、観光案内みたいなことをわざとやるようなことはあるし。そういう、ちょっとしたこう、…「即興」ということがとっても深いところにあるのね。それがないと表現って成り立たないじゃないの?
和合:私は、吉増さんとはじめてお会いしたのは十五年前だったんです。二十五歳のときに天王洲アイルで「詩の外出」というイベントがありまして、そのときに、吉増さんとご一緒させていただいたのが、最初だったんです。吉増さんが出演者としていらっしゃって、皆さんに「ありがとうございます」と感謝のお話しをされていて、とても印象に残りました。その二年後に原町市(現福島県南相馬市)というところに、お招きさせていただいたのですが…、その時もものすごくお客さんが、びっくりするくらいいらっしゃって下さいまして…、イベントが終了した時に吉増さんもお疲れだったと思うんですけれども、みなさんに大変丁寧に感謝の意を述べていらっしゃって…、心を込めて「ありがとうございます」っていうふうにおっしゃっている姿が、すごく僕には勉強になったんですね。あの映像を見たときに「ありがとうございました」ってお声が必ずあるんですけれど、すごくそのときの十五年前の新鮮な驚きといいますか、感謝の念を伝えていらっしゃるお姿を強く思い出しました。例えば映画を撮っていて、その場所への感謝とか礼儀とかを超えてですね、なにか地縁のようなものへ、あるいはその地の神のような存在のものへといいますか、絶対的な存在へといいますか…、土地そのものに投げかけているような意識が、すごく感じられたのですが…。
吉増:そうかもしれないなぁ、若くして死んだ僕の親友だった吉田武紀ってクライマーがいたんですけど、そいつが、「まーぁ、剛造よ、人間っていうのは最後はありがとうだけだよな〜」なんて言って死んじゃったけどさぁ。なんかどっかでやっぱりありがたいっていう言葉が、芭蕉さんの『奥の細道』にも入ってるのかな、「ありがたや雪をかをらす南谷」なんていう、すばらしい香りの佳い句があるけどさ。「ありがとう」と述べる、それもしかも一ヶ国語の中だけじゃなく、サンクスとかメルシィとか、そういうこう、ちょっと頭を下げる呼吸みたいな言葉っていうのは、やっぱりとても大事ですよね。それと同時にもうひとつ、こう日常的な話をするとさ、やっぱり詩を書くとかいうことは…、普通の、実業じゃなくて、虚業というよりも、もっと悪いことをするような、やっぱりとてもこううしろめたいよりも、とにかく底の底からお詫びをしないと申し訳ないような、そういう心っていうのは、常に偏在してるでしょ?だから、必ず、そういうふうに、言わせるような、あの戸口は開いていますね。やっぱりそれは別に、そのわびさびということじゃなくて、それを「挨拶」ということにもしたくはなくってね、その「ありがとーう」「ありがとーう」ってことをなんか広げていこうとしているのかもしれないのね。
和合:私はこれが吉増剛造さんの創作の源泉のひとつなのかなぁというふうに感じるんですね。
… 以上抜粋
(詩誌「ウルトラ」13号より)
ここでおよそ3分の1の分量であるがウェブ版は、終了とする。
詩誌ウルトラ13号(9月中旬頃刊行)に第1部・第2部の完全版を掲載する。
詩誌「ウルトラ」問い合わせ http://blog.goo.ne.jp/m31oikawa/
なお音声は以下に「インタビュー 全音声」として
第1部・第2部と完全収録されている。
(六本木詩人会編集部)
インタビュー 全音声
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[...] This post was mentioned on Twitter by 十蹴, 十蹴. 十蹴 said: ”それに、だいたいがその、中原中也のとか、そういう人が好きで入ってきた人間じゃないし、「詩」があんまり好きじゃないのね、 [...]
吉増さんはもっともラジカルな詩という評判なので読んでみましたが、
別にバカじゃなかったので面白くなかった。
みんなが理解できるから評価が高いんだろうなと思った。