百年前に切られた爪も百年後に切られた爪も、それらを残らず手のひらに乗せようとしても、波間を漂う世界の駄洒落は捕まえようがないのだ。俺は爪を拾うことに専念していたのだ、ある朝の夜更け。
砂の足跡はあらゆる惑乱を歩いた後であり、それは宇宙の引き潮のベールをはぎ取った後の束の間のほんのとまどいを俺に語ってくれてもいた。味の無い梅雨が痛烈に降ってくるから、それらに濡れながら、俺は爪をまだ拾い続けているのだ、飴色の砂浜で。ここはどこなのか、地理を追いかけるかのように、麗しい砂と泥の神よ、どこなのか、大洗。
それにしても抑えようのない反抗というものは、宇宙の膨らみを止めようがない。何でも良い、ともかくの野心とは、犬の唾液を垂れ流すことにつきるのだ、秋保の大滝。
この世界をひたすらに溺愛する、破壊する。難しい公式の裏側にある血の正解を、外すな。俺はますます泣きながら、次なる爪を拾い続ける。マニキュアの脅威を、もうどう仕様もない。
見ず知らずの思念が上滑りになって、爽やかなそよ風に変わる時に、夕暮れの真昼が倒れた。俺はひたすら風の目で追っている、拾いながら、その先の切られた爪を追っている。
太平洋なぞ少しの信頼もしていない。ただ人類の誕生の以前に波がやはり押し寄せていたという事実を隠しようがないだけである。ああ恐ろしいマニキュアの津波だ。そして青空の小さな雀の欲望を告げた、遠雷。
俺は裏切りを知った、さらなる無垢を知った、さらなる帆掛け船を見過ごした。海底には黒く塗りつぶされたタクシーが何台も乗客を待ってるぜ。この砂浜の足首だけの葬列の先に直立する棒切れと雑草とが俺だ、この俺なのだ。
ならば無垢をもっと殴り倒すとしよう、木の棒の先にほんの少しの野蛮が芽生えたとしたのならば。俺の棺桶を設計して、ダンボールで組み立てて、燃やすこととしよう。また作ろうか、出来上がる、出来上がらない、誤読されるための定型詩論。
俺の眼が追っている、切られた爪。そして、落ちているその先とは何なのか、ともすればエーゲ海の無情を許そう。俺は切られた爪を拾うことを止めるわけにはいかない。なぜなのか。
これまで俺は爪を切ることを続けてきたからだ。これは理由にはならない。ところで夢の途切れ目で貼り直されるふすまがある。爪を切れ、爪を塗れ。ここは火星の北極なのか。ところで青信号の森の奥には黄色い信号の林がある。
この爪、ダレんだよう。ところで奇怪に折れ曲がったままで、切り捨てられている、あらゆるものの全てを拾い、塗る、ラメ。さあ拾え。ところで再来年の真冬までには、つくしを再構築しなくてはいけない。
ここはどこなのか。どこの波打ち際なのか、爪を切る。地図と秒針とが追いかけてきて、俺の肌は地図記号と国道とでいっぱい。
皮膚が追いかけてきて俺は、隣の星を跳び越えることは、出来ないのだ。日焼けが背中で叫ぶから、爪をのばしたまま俺はマニキュアの海まで来たのだ。目で追われるようにして切られた爪をさらに切る。目で追いかけるようにして切られた爪を拾えば、誰でも肉体が、世界が、台風が、波が追ってくるというわけだ。
そればかりではなくツタやひまわりの葉脈が容赦なく、追ってくる。手のひらが、追ってくる。足の裏が、追ってくる。背中に、背の中が。
それ、そればかりではなく肉肉が追ってくる。失言が、大海原が、男の根が。滝と瀑布とが。体肉が追ってくる、舟の舳先が、無くなった街が。
追う、失敗したコカコーラが。急転する地球ゴマが黄色いヨットが。俺の体が俺にまとわりついてくるので、爪を切ると、深爪だ。切られた爪にほら塗れ、ラメ。
砂浜とはあらゆる切られた爪…的なものを堆積させている。砂金も砂花も砂塩も砂電信柱も砂アロエも砂飛行機もそして砂の爪と鷹の爪も。マニキュアの白波が寄せては返すぜ。
砂の浜は万物の爪を埋めるのだろう。俺は太平洋の塗料に泣き続けながらそれでも拾う。そして今日に生まれるきみの名前を「龍男」にするだろう。
朝が間違って深夜に顔を出したから、叱責してなんとか、夜明けに戻した時のことだ。さて太平洋が金銀に明るいからシャチに乗る少年よ、爪を切りたまえ。俺は俺の脳髄に爪跡を残したいだけなのだ。
俺はマニキュアの瓶にマニキュアを塗るだろう。何の意味も持たない、波音を思い返しながら。少しだけ世界の駄洒落を手に乗せることができたかもしれない。もはやどう仕様もない波打ち際のイマージュへ、ツメキリをぶん投げながら。そうして切られた爪を拾おうとする俺の頬に一筋の汗は流れる、流れない。
初出「Lyric Jungle」別冊号
復讐の爪切り
和合亮一
和合 亮一(わごう りょういち)
1968年生まれ。
第1詩集「AFTER」で第4回中原中也賞(1999年)、第4詩集「地球頭脳詩篇」で第47回晩翠賞を受賞(2006年)。
読売新聞・日経新聞(夕刊)・ディズニーファミリーサイト等に連載中。









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