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眩暈レチタティーヴォ

野村喜和夫


プフォよ、
きみのおぼえた眩暈をいつくしみ、そのなかにやすらえ、
あるいは眩暈から、
泡のようにふきこぼれた惑乱のきみの、
かけらをさがせ、

プフィよ、
しかし眩暈戦争だ、
眩暈一機、眩暈二機、あっというまに襲来して、
隠れようはないぞ、

プファよ、
言葉によって眩暈を記述する者は、
その半ばを記述するにすぎない、
なぜなら眩暈とは、
みえない蜜状の檻である、

プフォよ、プフィよ、
死がそうであるように、
これが眩暈だ、
などといえるあいだは、まだじっさいの眩暈ではない、
なぜなら眩暈とは、
顔のない熱情のひろがりである、

プフィよ、プファよ、
鉄が使用せずして錆び、
水がくさり、または寒中に凍るように、
眩暈もそれを用いずしては、そこなわれるであろう、
なぜなら眩暈とは、
笑う虹の階梯である、

プファよ、プフォよ、
われわれはときとして激情や陶酔に動かされ、
それを眩暈とまちがえる、
なぜなら眩暈とは、
時ふかく蔵われた瑠璃の翼である、

プフォよ、プフィよ、プファよ、
要するに眩暈とは、
その核心ではつねに暗澹とした色彩を帯びながら、
そのへりでは華やかな光が踊っている、

そう、プフォのようだ、
金の眩暈のひとしずく、ふるふるまわりに、
われわれの骨を育てよう、
銀の眩暈のひとしずく、ふるふるまわりに、
われわれの肉を育てよう、

いや、プフィのようだ、
眩暈の終わるところ、われわれも終わる、

いや、プファのようだ、
われわれの歩みはきわめて単純なものであり、
あるときまでは眩暈に向かって、それからさきは眩暈を後にして、
つまり眩暈を前に一回転をなしたといえば、
それでわれわれの歩みは尽きるのだ、

いや、プフォのようだ、プフィのようだ、
ひとは眩暈に襲われているときが、
もちろんいちばん美しい、

いや、プフィのようだ、プファのようだ、
眩暈のうちにはじめてひとは、
自分が何者であるかを知る、

いや、プファのようだ、プフォのようだ、
眩暈はわれわれの属性であって、
かつ、世界の属性である、

いや、プフォのようだ、プフィのようだ、プファのようだ、
眩暈という名の、
宙へとわれわれを脱ぐだれかがいる、
だれかがいる、





(初出=「エウメニデスⅡ」第33号、2009年1月)



野村 喜和夫(のむら きわお)
詩人。1951年埼玉県生まれ。早大文学部卒。
戦後世代を代表する詩人の一人として現代詩の先端を走りつづけるとともに、小説、批評、翻訳、朗読パフォーマンスなども手がける。
詩集『反復彷徨』『特性のない陽のもとに』(歴程新鋭賞)『現代詩文庫・野村喜和夫詩集』『風の配分』(高見順賞)『ニューインスピレーション』(現代詩花椿賞)『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』『スペクタクル』『言葉たちは芝居をつづけよ、つまり移動を、移動を』、評論『ランボー・横断する詩学』『散文センター』『21世紀ポエジー計画』『金子光晴を読もう』『現代詩作マニュアル』『オルフェウス的主題』、CD『UTUTU/独歩住居跡の方へ』など。

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1 コメント “眩暈レチタティーヴォ”

  1. ひょうしゃ(元評者) より:

    繰り返し出て来る「眩暈」「プファ」「プフィ」「プフォ」と言う言葉がキーだと思いました。

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