だが、私は感じる
北東の風に潜むあなたの羽搏きを
かなたへ行きこなたへ再び帰るための
あなたの
翼の
末尾に右の五行が置かれた詩篇「フリードリッヒ・H」を江尻潔の詩集『逆木』(漉林書房 1999年)中に見出した際の衝撃は、忘れがたい。その衝撃ゆえに、この詩篇中で参照されているフリードリッヒ・ヘルダーリンの詩篇「追想」はおろか、詩人自身の存在すらわたしは忘却してしまったため、あとにはただ詩の強度のみが印象として残ることになったほどだ。皮肉でもなんでもなく、それはわたしにとって間違いなく幸運な経験だったし、今でもそう思っている。だがここでは、追想可能な手がかりを少々たどったうえで、初読の衝撃への遡及を試みることにしよう。そもそもヘルダーリンの「追想」における「北東の風」は、詩人が「あらゆる風のなかでもっとも好ましい」と述べる風であり、「熾烈な精神」を約束する風でもあった。では江尻においては、この熾烈さはどのような過程を経て衝撃へと化しているのだろうか。
改めて詩句を眺めてみればすぐに察せられるように、引用末尾の三行は、統語的には一つの比較的長めの形容詞句を構成しており、最終的に二行目の名詞「羽搏き」を修飾している。ただしこれは、あくまでも初歩的な統語論のレヴェルにおいてのみ妥当とされうる分析だろう。むしろ肝要なのは、末尾三行の各行をしめくくる格助詞が、非言語的な空白の存在を指し示していることである。換言すれば、この三行はそれぞれが未了のまま独立した詩行へと化し、そのまま言語の「こなた」と非言語の「かなた」を切り結ぶ「羽搏き」へと化しているのである。したがってわたしの覚えた衝撃は、不可視の空白をまばゆいまでに可視化する江尻の「熾烈な精神」によって圧倒されたことに起因している。
詩句同様、あるいはそれ以上に、むしろそれを侵犯する空白が主導的にライン・ブレイクを定めていく詩篇。もちろんそれは、江尻が印欧語族ゲルマン語派のシンタックスを、日本語を通して身体化した際に派生した現象でもあるだろう(ちなみに、『逆木』巻末に収められた佐藤研一によるエッセイによれば、江尻は彼の前で「ヘルダーリンの言語の詩句をそらんじ」てみせたこともあったらしい)。事実、「フリードリッヒ・H」の末尾は、ちょうどドイツ語詩行の前後順を変えぬまま、日本語に直訳したかのようなたたずまいを示している。だがより重要なのは、そのようなたたずまいが、なぜ執拗なまでに空白を召喚するのかという点である。最終行に近づくにつれて、空白は加速度的に苛烈さを増し、ついには「翼の」の二文字を余すのみの地点にまで迫る。そのとき空白の白さは、ある強烈な光のまばゆさと呼応し始めてはいないだろうか。
ここでわたしが想起するのは、リチャード・シーバースによるヘルダーリン論中の、次のような一節である。
ヘルダーリンの全作品は、他者とのあてどない対話を追及する――これは狂気や革命の形を取ることもあれば、彼が初期のエレジーやオードにおいて讃えた、今では失われた直接性を有するあの古代ギリシャの神々の形を取ることもある。彼が実行したボルドーへの旅は、おそらくこの対話のもっとも直示的な例であろう。なぜなら彼は、ドイツを去り母国の地を去ることによって敢えて異質な空間へと分け入ったのだし、その際には、旅立ちの前日にベーレンドルフに宛てた手紙の中で記したように、稲妻に身をさらす覚悟をもっていたのだから(詩人によれば、稲妻は聖なるものの顕現を示す特権的な記号だった)。
シーバースの評言を転用しつつ、なおも江尻をめぐるわたしの推測を連ねていけば、以下のようになるだろう「フリードリッヒ・H」において輝く空白と対峙している江尻は、まさに稲妻の光に身をさらしているのではないだろうか。彼は、日本語内でドイツ語のシンタックスを瞬間的に身体化したのみでなく、慣れ親しんだ日本語自体を「他者」へと転換してみせたのではないだろうか。そしてそのうえで、彼は敢然とその「異質な空間」へ分け入ってみせたのではないだろうか。「外皮を破って流出するあなたの光は/狂気と呼ばれた/だが、あなたにとっては同じことだった/発狂も発光も。」そのようなくだりが「フリードリッヒ・H」中に現れることも、ここで是非とも記しておこう。なぜならば、「発狂も発光も」選ぶところのなくなるほど強烈な輝きこそ、まさに江尻の詩が「かなた」から「こなた」へと運びこんだものの謂なのだから。我々は自らも「稲妻に身をさらす覚悟」がある限り、日本語を異界とする契機を、江尻の詩から得ることができるのである。
一見しただけでは「フリードリッヒ・H」とはおよそ似ても似つかない作品を収めた新詩集『るゆいつわ』(思潮社 2006年)にも、そのような視座から接近を試みることができるだろう。詩句はもちろんのこと、折本形式の造りや十七篇の短詩と共に収められた曼荼羅のような絵文字の「像」が示すものを、ゆめゆめ取り違えてはならない。『るゆいつわ』は、内閉的な懐古趣味とも、審美的な東洋趣味とも、衒学的な国文趣味とも、はっきりと一線を画している。詩人自らがあとがき中で述べているように、ここで目論まれているのは、「ことばが本来の力を取り戻し、新たな『界』を開く『はたらき』をふたたび備えること」なのである。当然この「新たな『界』を開く」行為は、日本語の異界化を伴うだろう。そのことは、たとえば集中の一篇「みおちめお」からもうかがい知ることができる。以下に引くのは、この短詩の全編である。
みおの
ちに
やしほ
かがまき
みしほ
てる
いすず
なる
めお
これは我々の知っている通常の日本語とは「異質な空間」なのだから、いきなり意味を追おうとするのはやめよう。そして、とにかくまず詩句を眼にして口の端にのぼらせてみよう。そう、ちょうどドイツ語のシンタックスなどまったく知らない者がドイツ詩を前にした際に、アルファベットだけを順に眼と口で追っていくかのようにして。するとことさらにこちらから追わずとも、おのずと異界のほうから現れてくるものがあるはずだ。たとえばそれは、「みお」と「めお」、「やしほ」と「みしほ」、「てる」と「なる」の交差的な反射と反響であるかもしれない。それらの形と音の響きあいに心を澄ませるとき、人はその響きあいを生み出す流動体と結晶体を感得することになるだろう。そしてもうここまでくれば、人はたとえ「みお」が「水脈」を意味することを知らなくても、あるいは「いすず」が「五十鈴」を意味することを知らなくても、この詩が流動と結晶の間で生じる果てしない循環を体現していると悟りうるはずである。かつてヘルダーリンの「外皮を破って流出」した光は、今輝かしい渦巻きたる「かがまき」の流動へと化し、さらに「いすず」の結晶へと化しているのだ。その結果、躍り上がるようにして現れるのが「めお」、すなわち女と男の一組である。彼らの出現が、さらなる流動と結晶の循環をもたらすことは、もはや言うまでもあるまい。
共に日本語を異界へと転じてみせる「フリードリッヒ・H」と「みおちめお」を比較してみると、前者は「発狂も発光も」お互いからの差別化を図りがたくなるほどの熾烈な空白を示しているのに対して、後者は発狂を発光に転換せしめる肯定的な生の力学を顕しているかのように見える。おそらくそれは、詩人が詩集『るゆいつわ』の「あとがき」中で記している次のような祈りの言葉と相通じる事態でもあるのだろう――「私がこの詩集に託す願いは『言霊の幸ひ』、この一語につきます」。ただし、この「言霊の幸ひ」は、静止的で安定的なしろものではない。最後にその点について付言するために、「ことのはのる」の全編を引く。
てるくはの
く九のは
このなぎ
こと九十のはの
くすひ
ふとのる
こともちろ九十百千万
おせ
既にこの詩に対しては、『るゆいつわ』別冊に論考を寄せた評者たちによって、極めて精緻な読解が供されている。いわく、この詩「ことのはのる」が、「てるくはのる」の暗号によって記憶されている京都小学生殺害事件(一九九九年)の起こる三日前に、まるで凶兆のようにして生まれたこと。にもかかわらず、この詩においてもっとも肝要なのは、そのオカルト的な予言性ではなく、むしろそこに息づく「何処までも影を変換し続けていってほしいという江尻の切なる思い」(タケユキオバナ)であること。あるいはまた、それが「『ことばの霊力』を回復し、何ごとかの物理的な力を行使しようとする意思」(田野倉康一)でもあるということ。これらの透徹した解釈に付け加えるべきことは、ほとんどない。ただし、影を光に変換してことばの霊力を回復しようとする江尻の詩が、そのような力とは相反する潜勢力をもはらんでいる点については、ここでわたしなりに少しばかり述べておいてもいいかもしれないと思う。たとえば「てるくは」(照る葉)の光が、瞬く間に九層倍になり、さらに九十層倍、九十百千万層倍へと増幅される様は、核分裂によって生じる人智を超えた原子力の光の様へと容易に転換されうるものでもあるだろう。それは場合によっては、極めて凶々しい影の意図のもとに炸裂しうる光でもある。そして同様なことは、末尾の「おせ」についても指摘できる。もちろんこれは、まちがいなく邪悪な力の暴走をとどめる働きではあるのだが、凶事の遂行者の背中を押す働きとも潜在的には関連しているはずだ。実際の話、やがて小学生の身体にナイフをつきたてることになる二十一歳の青年の心中で、この「おせ」という命令が響いていなかったとは、だれにも断定できないのである。
こうして、我々は、「ことのはのる」において江尻が祈りを捧げている存在が、依然として発狂でもあり発光でもあるヘルダーリン的な輝きであることを確認する。もちろん先にわたし自身が「みおちめお」について述べたように、「ことのはのる」においても発狂は発光へと転換され、向日的な力線を描いてはいるだろう。だがそれは、けして発光が発狂と絶縁したことを意味するわけではない。むしろそれが示唆しているのは、それら両者が常に循環を繰り返し、お互いの潜在性へと化し続けていることなのである。凶暴な聖性の背後には、必ず聖なる凶暴性が息づいているのだ。
ヘルダーリン自身の言によれば、彼がひとえに恐れていたものは、「タンタロスのように、自らが消化できる以上の聖性を神々から授けられてしまうこと」だったという。結局彼は、恐れを覚えれば覚えるほどその魅惑に引き寄せられることになり、文字通り「自らが消化できる以上の聖性」に身をやつし果てることになったのだった。では、その後になおも「稲妻に身をさらす覚悟をもって」まばゆさに向き合う道を選んだ江尻潔は、果たして今後どのような「言霊の幸ひ」と遭遇することになるのだろうか。ほとんど予断は許されないが、ただひとつ確かなことがある。それは、彼が今後も絶えず荒ぶるまばゆさに向き合い続け、発狂が発光へと変貌するよう祈りを捧げ続けるだろうということだ。そのように熾烈な詩人の精神に対して、果たして異界から射す輝きはどう応えるのか――息を呑みながら、我々は今後もそれを目撃していくほかあるまい。
(『翻訳の文化/文化の翻訳』3号より転載)
発狂も発光も――江尻潔の『逆木』から『るゆいつわ』へ
山内功一郎















