戦後が終わり、既に60年が過ぎている。その間に書かれた詩の総量はどれくらいあるのだろう。思潮社から刊行されている「現代詩文庫」は田村隆一、谷川雁に始まって、現在では190番台に突入している。それだけでも、詩の歴史的蓄積の膨大さを示している。さらにその周囲には数多くの詩の書き手が存在し、そしてその数は日々増加を見せており、有名・無名を問わなければ詩人は現在かなり存在しているように思われる。近代に比較すれば、「新体詩抄」を経て、「口語自由詩」の成立以後、詩人の数は急速に増加していったように思われる。
もちろん、近代においても詩の書き手自体は潜在的にも数多く存在し、「文学青年」の数では近代の方が現在よりも上かもしれない。ここで指摘したいのは、可視化出来る書き手が増えてきたということであり、それはインターネットという誰もが表現者になれる場所の成立とも合わせて考えなければならない。
紙とペンしかない時代は、それを発表するためには「媒体」が必要であった。現在では、中高生たちのケータイからでも全世界へ向けてダイレクトに自分の表現を発表出来る。自分の作品を活字として世の中に残そうと、「ガリ版」の同人誌などを作ったり、投稿を必死で続けたりした「文学青年」たちに比べると、現在は容易に誰もが「表現者」となれる環境が整備されているように思われる。
また、毎日、日記のように詩が発表されている。自分のホームページやブログなどを利用すれば無料で、しかも誰からも制限されずに作品を発表出来る。そうして、その作品は日本だけではなく、世界中で見ることが出来る。自分の部屋から世界中に発信出来る空間は、もはや媒介するメディアを必要としない。発信者と受信者はネットという媒介によって直接つながれてゆく。
そのようなことからも、現代は「一億総表現者時代」と呼ばれることもある。ただし、人間は表現しようとする欲望は古代から持っていた。ラスコーの壁画などの古代の文化においてもそれは見られる。そのような欲望を満たす装置としてインターネットがあり、それ故に発達をしたと考える方が妥当なのかもしれない。
ところで、現代において詩を書く場合、書き手は単に「書きたいことを書けばいい」という意識では「どこにでもいる詩の書き手(というのも苦しいが)」という評価しか受けない。誰もが表現者になれる環境の中では、当たり前のことを表現しても、単に「趣味で詩を書いている人」としか見られない。
一方、詩表現には「匿名性」という要素があり、あえて「固有名」を抹消することで表現の自由を獲得する場合もありうる。しかし、それがあまりに蔓延すると、最終的には「詩は書きたい人が書きたい時に書きたいものを発表すればいい」という結論に辿り着く可能性が高い。「よみびとしらず」というものを理想とする詩の書き手も多く、「固有名」がないことによって作品そのものをより純粋に受け止めることが出来る可能性は高い。
詩表現は、元来プロフェッショナルとアマチュアを分けるはっきりとした基準がない。一般的な職業における両者の違いは、それで商売として成り立つかどうかが前提になる。ここにおいて、詩で食えている詩人はほとんど皆無である。国民的な詩人とされる谷川俊太郎でさえ、その主要な収入はむしろ詩以外の領域における仕事に拠っている。
さらに、現在では詩集はほぼ自費出版で作られている。それはいわば、お金さえ出せば誰でも本を出せるという現実を容易に導く。本を出しているからといって、その書き手がプロとして自立する訳ではない。
詩は元来アマチュア的なものなのである。そのため、プロの詩人とは、「賞」という冠があるか、新聞や大きな雑誌などのメディアによって認められているかという「社会的な地位」に拠ることが多い(単純で乱暴な言説をお許しいただきたい)。
ところで、プロとアマという区分けは本当に必要なものなのだろうか。詩は誰が書いてもいいし、それがどんな表現であってもいいものである。また、「形式」からの離陸を出発点とした「自由詩」の行き着く場所は、メディアの干渉を受ける紙媒体よりもその干渉が少ないWEB空間の方がふさわしいように思われる。
そこでは、有名無名を問わず、より多くの人々の目に触れることが出来る。民主的な評価が一部の限られた選者の評価よりも優れているかどうかを断定することは出来ないが、より多くの人に詩が開かれる可能性は後者の方にあるように思われる。
これに関連していることであるが、詩の批評の現場で最近頻繁に飛び交う「詩の拡散」という言説の流通を無視することは出来ない。ある批評家は、音楽や映画などの他分野に詩が拡散しているという。
確かに、詩の言葉らしきものがJ-POPやコピーの中に見ることは出来る。さらにコピペ文化に彩られたWEB空間においては、そのようなものの単純な変形が詩のようなものとして数多くのホームページやブログに掲載されることになる。
そのような状況は、確かに詩がどこへ向かうべきかを曖昧にさせる。「詩とは何か」という近代から続いた命題を担って、途方に暮れることもあるだろう。しかし、詩と詩でないものの差異を明らかにすることと、自分がどのような表現を目指すのかは別の問題である。「詩はこういうものだ」と言い切れば、その瞬間に失うものの方が大きい。仮に、詩の中にサブカルチャーの言葉が溢れているものを読んだ人々が、「マンガやアニメが詩に拡散している」と言うだろうか。
また、「拡散」という表現も今の状況を正確に語っているようには思われない。確かに、情報が溢れ、価値観や好みも複雑に多様化した現在に「国民的」と呼ばれうるような共同体全体の評価を得るような作品を創造することはどのジャンルにおいても難しい。
たとえば、マンガなどのジャンルにおいて、コミケ(コミックマーケット)などにおいて見られるのは、現実世界(社会?)に共同体を持つのではなく、仮想現実の世界に共同体を築こうとする若者の姿である。しかも、そこでは「オリジナル(原作)」と「コピー(同人誌など)」とが、あたかも「同等価値」のものとして扱われる。「原作の拡散」などという言説はここでは生じない。むしろ、単数の作者が作り上げた世界を複数の作者たちが拡大しようとしていると考えるのが妥当であろう。
少し上の世代の人々は、マンガやアニメをひと括りにしがちであるが、実際には作品単位、あるいはその作品世界を受け手がどのように受け止めているか。そのようなことが重要になる。また、「オリジナル」を拡大する「コピー」の作者は「オリジナル」の良き読者である。これは、詩のジャンルともつながるだろう。朔太郎の良き読者がその詩を現代風に書くという行為もジャンルの幅を出すには必要なことかもしれない。
反対に、ここで仮に「詩の拡散」というものがあると考えてみる。その状況を述べるとするならば、先述したように、たとえば広告のコピーのような力ある一行や小説、映画、音楽、演劇などの他ジャンルに詩的なものが振り撒かれているということを述べることが出来る。だが、そう考えるならば、詩というものが他のジャンルと比べて何かしら「特別」なものとして扱われていることが指摘出来るであろう。詩を中心に考えるならば、「拡散」は「ある」と言えるだろう。だが、詩を中心に世界が回っている訳ではない。詩や文学を中心に生きている人間がいるとすれば、「拡散」という言説を提示する理由もよく理解出来る。
そこでは、詩が何か「純粋」なものや「神聖」なものとして扱われているようにも見える。拡散の意味を厳密に考えれば、それがどれほど乱暴で傲慢なものであるかは容易に判断出来るだろう。「詩が全てです」というのはカッコイイが、その考えを批判へと向かわせるならば、その人は単に「視野のせまい人」としか見なされないだろう。さらに、いたずらに「拡散」という言説を用いることは状況を分かりにくくする。詩は拡散していない。そのように考えることから詩の未来を描き、語り出すことこそが現在最も要請されているように思われる。
詩は拡散していないと考えることにする。では、具体的に現在の状況はどうなっているのだろうか。先述した通り、ネットの発達によって、発表の形式が以前とは根本的に変容している。以前であれば、同人誌や雑誌などの紙媒体での表現が主だった発表の場であった。それは、派閥ではないが、ひとつの権力的なものとなりえた。つまり、「○○」という雑誌に掲載されるということが詩人としての自分のポジションを保証するのである。これは現在でも続いている現象である。雑誌の投稿欄において情熱を持った書き手が集っているのも「認められたい」という思いが基盤になっているように思われる。
それに対して、先述した通り、ネットでは主にホームページやブログなどで詩作品を発表する人々が多くなった。ただし、ネットの世界においても投稿のシステムは存在する。一般の参加者たちによる「投票」という民主的な方法によって作品の評価を決めるサイトもある。だが、「民主的」というのは欺瞞のように思えてならない。
その「投票」を支える有権者は「詩にある程度興味があり、自分でも書いたりする人」がほとんどであろう。詩に興味のない人はそもそも詩のサイトなど覗かない。より「民主的」であろうとするならば、詩に無縁の人々の前に詩を提示するような運動、あるいは働きかけが必要になる。
人間の本性として、自分の書いている表現を作品と意識した時から、それを認めて欲しいという思いが強くなる。「ひとりごと」としてではなく、自分の言葉を届けたいと思った瞬間から、表現は他者を求める。それは少年少女が路上などで歌を初めて人前でうたい出す心理と同じように思われる。それが「投稿」という場所が持続する理由のひとつでもある。
そうして、「投稿」というシステムから離脱して、「ひとりごと」に戻る場合もありうる。逆に「投稿」を必死で続ける場合もありうる。自分を全く知らない他者に作品を届けることは不安である。お笑いのトーナメントのように、表現に関しては読者に「ウケる」か「ウケない」かである。「ウケる」というのは、相手の心をつかむということにつながる。知らない人に受け入れてもらうということは、表現を問わず、大変なことである。
最近では、mixiなどのSNSに作品を公開する場合も増えている。それは、恐らく中高生が友達にだけノートに書いた詩のような断片を見せることに似ている。私の詩作の開始も、誰に見せる訳でもなく書いていたノートにある。高校の時から歌詞のようなものを書いていた。人間が表現への道を歩み始める時、必ず通過する経験を私も他者と同様に行ってきた。今でも未発表の詩篇が実家の押入れの中に詰まっている。
書きたい。それこそ、人間が詩人になるためのはじめの一歩ではないだろうか。また、それは他のジャンルにも当て嵌めることが出来るだろう。そうやって、本来はノートに書いて眠らせるべきものであったものが、ネットの空間においては誰もが自由に書き込めるために溢れるほど登場してきたのである。
以前だったら、押入れの中に入れていたようなものがネット空間の中に投入されているのだ。その増殖は恐ろしい程であり、作品の成熟などと無縁の「書きたい」という表現欲の塊がネット上に溢れている現状がある。
では、それを誰が読むのか。それを読むのはほとんどが書いた人間の知り合いくらいではないだろうか。星の数ほどもある一般人のサイトで、彼ら彼女らが書いた詩をチェックするような時間がある人はほとんど皆無であろう。ネットは誰もが発表出来る機会を得るが、それを受け取る他者の存在はあらかじめ限られており、保証されないのである。そうして、多数に受け取ってもらうためにはやはりネット上の投稿スペースの利用が必然的に選択される。
そう考えるならば、過去とそれほどの違いはない。結局、紙媒体かネット媒体かの違いだけである。まずは、表現したい欲求に始まり、それがだんだん伝えていきたい欲求に変化することから、人間はそのための場所を探し始める。路上で詩を手渡すのがリアルで、ネットで詩を公開するのがヴァーチャルなどという議論は、原理を深く考察していない言説である。
「異世界へ!」
私は、現在の詩の状況において、ただそのように言うことしか出来ない。「異世界」とは、単純に述べると未知の領域のことである。自分が所属していると思われる場所とその延長が「世界」であるならば、「異世界」とはそれとは全く異なる場所である。人間は、生活を続けて、経験を増やしていくにつれて、習慣の奴隷になっていく傾向が強い。ブルトンの「シュルレアリスム宣言」は、そのような精神の堕落からの離陸を最優先で考えていた。自分が知らない場所を探検することこそが、創造なのである。そして、その創造がなされる場所を仮に「異世界」と定義する。そう考えると、紙媒体やネット媒体というのはツールの問題に過ぎず、作品そのものの本当の面白さや価値とは関係しないと断言してもいいだろう。そこで目指すのが、未知のフィールドである「異世界」なのである。
谷川俊太郎が、「世界へ!」という評論を書いてから半世紀以上が過ぎようとしている。この評論では、それは「現実」であったり、「社会」と置き換えてもいいように思われる場所であった。だが、私の述べる「異世界」とはリアルやヴァーチャルであるとかの次元を超えた、私たちひとりひとりの知らない「完全な外部」として存在する場所なのである。
その未知の扉を開けるために、詩は「自由」という概念を抱くのである。自分の内部だけで気ままに振る舞うことを「自由」と呼ぶ人がいるが、それは傍目からすると「不自由」でしかない。伝統的な形式による表現であっても、未知のフィールドである「異世界」を見据えれば、自然と外部へとはみ出し、「自由」を獲得することが出来るのである。
現在の詩の書き手たちは「現代詩」という領域の枠に縛られ過ぎてはいないだろうか。それは、一部なのかもしれないが、そう感じさせる作品や批評に触れることが多かったように思われる。作品の完成度を目指していても、近代詩や戦後詩の「名作」の前でただ呆然となるしかない。
詩を目指すのではなく、そして現実を目指すものであってもいけない。故人である山本哲也氏は「現実を描こうとすれば、現実にも及ばない」ということを述べている。その通りである。多くの書き手が、いつの間にか現実の方向へと向かってしまうのである。そのような人々に、あえて言いたい。「異世界へ!」と。
異世界へ!(詩はこれからどこへ向かうべきか?)
松本秀文
松本 秀文(まつもと ひでふみ)
1979年 12月20日生まれ。いて座。A型。福岡在住。
既刊詩集に『鶴町』、『白紙の街の歌』(ともに思潮社)などがある。
詩の朗読でも地味に活躍中。詩誌「ウルトラ」同人。
ブログ「sokudotaroの日記」時々更新中。http://d.hatena.ne.jp/sokudotaro/
















