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エッセイ 映画の女

今橋愛

 山で暮らしていたとき映画を見ようと思いたった。ものすごくひまだったからだ。

 特にひまだったのは昼間で、わたしは山みち車をとばして ある時は びびりながら ある時は泣きながら またある時は何かよくわからないものに怒りながら隣の県、あるいは少しだけ栄えた場所のレンタル屋まで行き、映画を借りた。温泉に行ったり田んぼばかりの道ドライブして、たのしかったな。いつもひとりだったからあの空間を今、誰とも共有することはできないけれど あれはいい思い出だ。それはそれとして特に映画好きでもないため、どれがおもしろいのかわからないので、しげしげとタイトルを見回し、見比べ、4本づつくらい借りていたある時期があって。その最初の4本のことを書きます。

 映画とゆうのは入りこむ。じーっと見てしまう。余裕のない性格なので、ぴったりと。少しの隙もない感じで見てしまう。そうしたら1本目、2本目、どちらもラストで主人公の女が死んでしまうのだった。2本なら、えー。そうなん?でまだすむが、3本目もそうだった時には うそ、やろ。という感じで、音楽、台詞、目にうつるもの 映画というのはすべてをつかって訴えてくるので すっかり気がめいった。自分が3回も死んだような気になるのだ。女が死ぬのは自分の死、そうゆう気にさせるのが映画だ。わたしは一週間もたたないうちに3回死んだ。

 その日の夜の仕事のときも何だかうつろだった。そりゃあ3回も次々死んだのだからな。どんよりしていた。そしてごはんをつくっている先の人に「女が死んでばっかりで いやや」と言ったら、その人はわらっていた。この人またおかしなことゆうてんな。という感じで。

 「今日のも死んだら いややわー」と手をふって部屋に帰り、最後の映画を見ていたら、なんかうすうすここまで来たら この映画も死ぬんちゃうかなーと思えてきて そうしたら、その話の主人公もラスト近くで川に飲まれて唐突に死んでしまった。
次の日ごはんを作るときに 自分の意志と全く関係なく今週4回死んだわたしは、いいかげんこころが。めいりきって。うつろで。すべてにおいてどんよりしていて。フライパンを床におっことしてしまい あれは煮込みハンバーグだったのか何だったのかミックスベジタブル、その黄、おれんじ、グリンの粒々、市販のデミグラスソース?ちゃいろいのが ぱっと壁(しかも白)にまで散って フライパンは重く。落としたときも もっと取り散らしたらいいのに、ああ。そら落とすわ。4回も死んでんから。ともーのすごく低い感じで切なかったのをおぼえている。昨日話した人が「いまはしさん 女死んだん?」と聞いてきたから「うん 死んだ」とこたえた。

 その頃の関心事は、女の一生、生き方で、それを映画にて知ろうとすれば女たちはラスト近くで どらまちっくに死んでしまうのだった。やはり死なのか、と。そりゃあ死んだら話としてのおちはつくし、誰かのこころに他と間違えない「死んだもの」として残るやろうけど。しかし。やはり死なのか?そうなのか?

 急激に来る「映画の死」はうつくしく。もっていかれた感じがしたけど同時に死んでしまうことによって、その後の倦怠や衰退、日常の諸々を全部手放してしまうのを それはずるいのではないか。と腹のたつこころもあり。
わたしはあの頃、自分の生が、何だかいろいろなことの後の残りかすで、余分なことをやっているような気もしていた。癖なのか何なのか いつも死があった。こころのどこかに。

 山の中で ひかくてき緩やかな数年をすごした。そして死を回避した。だけど、その間にも生きていくこと、生きていくならどうやって、どう折り合いをつければ、この先も生存していかれるのか。そんなことをぼんやり。でもいつも考えていたような気がする。



(初出 Snell4号)

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今橋 愛(いまはし あい)
1976年大阪市生まれ。歌人。
2002年、「O脚の膝」100首で北溟短歌賞受賞。
著書に歌集「O脚の膝」。同人誌〔sai〕、snell、未来短歌会に所属。
ホームページhttp://www.aaaperson.jp/

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